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生きたい、と、死にたい、の間で。。。

ナタリー・ポートマン主演の『アナイアレーション~全滅領域』というSF映画がある。SFというより、観ると夜うなされる悪夢的映画だ。なんじゃ、アナイアレーション? って、思うけど、アルファベットの「Ⅰ」を、かたくなにアイと読もうとするアメリカ式英語で表記するから、こうなっちゃう。。。アニヒリエーションにしてくれたら、なんとなく、あー、ニヒル(無)にしようとするのね、ってイメージできるんだけどさ。。。

この映画は、かいつまんで言うと、異星人が人間の世界を「コピー」する装置を隕石に仕込んで送り込み、人間を滅ぼそうとたくらむ。。。ところが、コピー機能が粗雑なためか、植物と動物と人間のDNAがごちゃまぜになった異物が出現してしまう。。。そして、異星人は人間をコピーするんだけど、その際、人間が潜在意識の底に持ってる「自己破壊衝動」までコピーしてしまうんだ。。。生と死の願望が実は表裏一体という、あのフロイド博士が発見したリビドーとタナトスだ。。。で、どうなったかというと、異星人もまた自己破壊衝動に駆られて自滅しました。。。世界は救われた、めでたし、めでたし、という内容。。。

はいつくばっても、生きたい、という衝動の裏で、なんだかわからないけど死にたい、という衝動も動いているという。。。ほんと、人間は不思議な存在だ。自分の心をみつめると、たしかにそういう動きがあるのは、事実だよね。。。

聖書は、アダムとエバが罪を犯した結果、人間は死ぬようになった、と説明している。

ここから、じゃあ、もし二人が禁断の木の実を食べなかったら、不死の存在になっていたのか? という疑問が生じる。

これは、ある種の思考実験だけど、実際の世界で死が常態化しているわけだから、現実に沿っていくら考えてみても、この疑問に答えはでないよね。だって、選択肢が死ぬ一択しかないんだから。。。

そこで、ファンタジーの世界で、この思考実験をしてみた人たちがいたんだ。

まず、もし最初の人間が誘惑に打ち勝っていたら、どうなるか? という思考実験。。。これは、C.S.ルイスが神学的SF三部作(マラカンドラ・ペレランドラ・サラカンドラ)の第2巻『ペレランドラ~金星への旅』で描いている。ルイスは、サタンの誘惑がいかに巧妙かを想像力豊かに描いていて、苦しみを知らない無垢な人間になるより、あらゆる苦難を耐え抜いて鍛えられた人格になることこそ、神がおまえに願っていることだ、神の心を知ったなら、苦難の道を選ぶのは当然だろ? みたいにヒロイズムを煽る言葉で、罪を犯すように誘って来る。自分だったら100%負ける気がする。。。

しかし、金星の人間は、幸いなことに、誘惑に打ち勝つんだ。そしてルイスの筆は、勝ちました、不死の存在になりました、良かったね、で、終わり。その先について。。。つまり、堕罪しなかった人間は、どういうキャラクターになるか? という問いについては、第1巻『マラカンドラ~沈黙の惑星を離れて』に登場する火星人を参照してね、という構成になっている。。。

堕罪しなかった人間は、どんなキャラクターになるか? という思考実験については、J.R.R.トールキンがやっている。オックスフォード大学の文筆サークル「インクリングズ」でルイスの仲間だったトールキンは、ハイファンタジーの金字塔『指輪物語』の第1部「旅の仲間」のなかで、トム・ボンバディルという不思議な森のおじさんを描いた。創造主エルにつくられた最初の人間であり、堕罪しなかったために不死の存在として、ずーっと「中つ国」で生きているトムは、どこまでも妻を愛し、森の住人たちを愛し、陽気に飛び回り、客人を気前よくもてなす、生きた太陽みたいな存在だ。そして、トムは、いかなる誘惑にも負けない。冥王サウロンの魔力が込められた「ひとつの指輪」を手にしても、トムは少しも興味を示さないどころか、おもちゃのように扱う始末で、そんな彼に指輪は全く支配力を及ぼせない。。。自分が「ひとつの指輪」を手にしたら。。。絶対負けるし。。。

トム・ボンバディルのような人間を、まじかに見てみたいものだなあ。。。罪と死がデフォルト状態の世界に生きている限り、それは、望むべくもないことなのか。。。

今日の聖書の言葉。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6:23 新共同訳

でも、聖書は、この世界に、罪のない不死の存在が、ひとりだけ送り込まれてきた。。。それが、イエス・キリストだ、と主張している。

これはねー。。。思考実験ではない。。。現実の世界に突入してきた、新しい神の現実なのだ。

罪が無い、不死のキャラクターであるイエス・キリストについて、わたしたちは聖書のページを繰ることによって、知ることができる。

それだけではない。全世界のすべての人に同時に到達できる普遍存在である「聖霊」をとおして、わたしたちはイエスのキャラクターに直接触れることができるんだ。。。だって、聖霊は、イエスの霊だから。。。

罪を犯したことがなく、罪がないイエスは、人類の身代わりに十字架にかかり、死んだ。そうすることによって、人類の罪科を帳消しにした。それだけではない。死を命に転換させるために、イエスは復活した。これが、世界の現実のなかに導入された、新しい神の現実だ。

この、新しい神の現実に沿って、わたしたちは罪を赦され、永遠の命にあずかり、聖霊をとおしてイエスのキャラクターが、わたしたちに移植されて行く。そのプロセスにおいては、古い自分がキリストと共に死んで、新しい自分をキリストが生きてくれる。。。そう、あの「自己破壊衝動」が、ここでは全部受け止められた上で、「命」に転換されるんだ。その結果、新しい人間にわたしたちは変えられる。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二 5:17 新共同訳

わたしたちがイエスに似たキャラクターに変えられること。それは、ファンタジー寄りの表現をすれば、トム・ボンバディルのような、生きた太陽みたいな存在になれる、ということだ。

ちなみに、『指輪物語』を映画化したピーター・ジャクソン監督作品『ロードオブザリング』では、トム・ボンバディルは全カットされている。。。


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