見出し画像

14歳だった自分にタイムマシンでボトルに入った手紙を送るとしたら。。。

いまー わたしのー
ねがーいごとがー
かなーうなーらばー
つばーさーがー ほしーいー
・・・
この大空に つばさをひろーげ
飛んでゆきたーいーよー
悲しみの無い自由な空へ
つばさー はためーかーせー ゆきたいー

これを、中学の音楽の授業でよく歌わされた、っていうメモリーがある。

なもんだから、新世紀エヴァンゲリオンの終幕にこれが流れて来ると、いっきにマインドが中学時代に連れ戻される感覚がする。。。

狙ってるのかねー。。。

今日の聖書の言葉。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙 5:1 新共同訳

「悲しみの無い自由な空へ、飛んで行きたい」っていうのは、14歳の頃、ずーっと思ってた。

毎日というか、毎時間というか、毎分、毎秒、願ってた。。。

ふりかえってみて、何がそんなに悲しかったのかなあ、と思うけど。。。

たぶん

自分が、他者から期待されているような自分になれていない、悲しみ。

そして

自分が、自分に期待しているような自分になれていない、悲しみ。

この二重の悲しみが、空に飛んでいきたいと思うほど、悲しくさせていたのかもしれないねー。

人間は、ひとりでは生きられないから、集団を作って、助け合って生きる。

遠い、遠い、有史以前のご先祖さまから、中学校のクラスを経て、今日に至るまで、ずーっとそうして来たのだ。

集団で生きるには、他者と呼吸を合わせなきゃいけない。

自分と他者が、息を合わせる、って感じ。

原初において、その「息を合わせる」ってところから、言語が生まれ、リズムが生まれ、歌が生まれ、踊りが生まれ、祭りが生まれ、ルールが生まれ、規則が生まれ、法律が生まれ、道徳が生まれ、今日こういう世界になっているんだろうなあ、と想像する。

そして、そういうすべてが、ぜーんぶあわさって、集団を集団たらしめる目に見えない境界線というものが、出来上がっているんだと思う。

その境界線が、ぐるーっと自分を取り囲んでいる。

14歳ぐらいになると、その境界線。。。目に見えない境界線が。。。見え始める瞬間があるんだろうね、きっと。

その結果、ギャップを感じ始める。

それは、自分と他者の呼吸が合わない、というギャップ。

まあ、当然、あるよね。自分と他者は、違うんだから。

それだけなら、まだいいけど。。。

自分の内側には、内なる自分という謎の規範的存在がいて。。。それはたぶん、集団を集団たらしめている境界線が、内面化されたものに違いないんだけど。。。そいつのリズムと、自分のリズムが合わない、っていうギャップ。

こうなると、自分の存在そのものがギャップになっちゃう、という。。。

14歳。。。そりゃ、つらいわけだよね。。。

自分はそんなとき、新約聖書を読んで、アタマをカチ割られるような衝撃を受けた。

どうしてかというと。。。

イエスは十字架にかかり、復活することによって、集団の境界線を廃棄した、って言ってるんだもん。

マヂかよ、と思った。。。まあ、当時、マヂなんて日本語表現はまだ存在していなかったけど。。。

神が境界線を廃棄したことについての証拠聖句が、これ。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました
エフェソの信徒への手紙 2:14-15 新共同訳

もういっちょ。

その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです。
ヘブライ人への手紙 7:18-19 新共同訳

集団を集団たらしめる境界線が、イエスの十字架によって、廃棄された、っていう。。。

その意味するところを、完全には理解しているわけじゃないけれど。。。

でも、新約聖書が言ってることが正しいのであれば、自分、もう、ギャップに悩まなくっていい、ってことになるよね?

自分と他者のあいだのギャップ。自分と内なる規範的存在とのギャップ。

そのギャップを終了させるために、イエスは集団の境界線そのものを十字架につけて、終わらせてくれた。

14歳だった頃の自分は、内なる規範的存在の厳しさによって、いつも苦しめられていたんだけれど。。。

ありがたいことに。。。ほんとうに、ありがたいことに。。。そういう内なる規範的存在すらも、この世や、境界線と共に、十字架につけられて、終わらされた。

そして、いま、復活のイエスが聖霊をとおして、自分の内に宿っていてくれる。

それは、古い規範的存在に取って代わったイエスが、新しい規範的存在として君臨して、自分を奴隷のように使役する、ってことではないんだ。

イエスは、人生の同伴者として・友として・パートナーとして、自分の生を一緒に引き受けて、生きてくれる。そういう存在だ。

もし、14歳だった頃の自分にタイムマシンでボトルレターを送ることができるとしたら。。。

こう書こう。

だいじょうぶだよ、あなたの願いごとは、必ずぜんぶかなうから。かなった世界から書いている自分より、って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?