絶望は、ある日、小鳥のように。。。
海って美しい豊穣の海っていうイメージがあるよね。
けど、荒れ狂う混沌というイメージもある。
人間にとって生と死は表裏一体の関係だ。それに似て、海も生をもたらす面と死をもたらす面が一体になってる感じがする。
深い淵。。。這い寄る混沌。。。滅びの泥沼。。。騒音と絶望。。。
こういうネガティブ属性を、タコの吸盤、深海魚の目玉、サメの歯などのイメージと混ぜ合せてラヴクラフトが創作したパルプフィクション『クトゥルー神話』は、まさに絶望を体現するアイコンなんじゃないかと思う。
じつは聖書にもそういう絶望を体現するアイコンが出て来る。
それが海の怪獣「ラハブ」だ。
でも、絶望に対する聖書のスタンスは、けっして深淵の暗闇を覗き込もうとしないこと。
たとえば、詩編 40:5 ではこのようにさらっと流す程度。
ラハブを信じる者という言葉。旧約聖書の原語のヘブライ語では「ラハービーム」というラハブ(海の怪獣)の複数形になってる。
たった一匹でも恐ろしいラハブが何匹も出てきた日にゃぁ、卒倒してしまうよね。
今日の聖書の言葉。
でも、わたしたちの叫びを聞いて、神は走り寄り、滅びの泥沼から助け出してくれる。今日の聖書の言葉の続きにこうあるとおりだ *。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった
まあ、たとえラハブに遭っても、神が救い出してくれるならそれでいいじゃん、という向きもあるだろうけど。。。にしても、神は全能なはずなのに、なぜこの宇宙に絶望を体現するアイコン、ラハブみたいな存在が許容されているのか?
この謎を考えるのが「神義論」(Theodicy) の課題なんだけど、これはねー、なかなか答えが出ない難問だ。
でも、聖書はラハブに関してずばぬけてスゴイ解決法を示している。
なんとねー。。。絶望を体現するアイコン、海の怪獣「ラハブ」を神を知る者として数え入れ、それだけでなく、神の都エルサレムで生まれた者、つまり、神にこよなく愛された者として認め、かつ、そのように永遠の書に書き記すと神が言うんだ。
神のふところ。。。どんだけ広いのよ。。。もうね、寛容の壁を突き抜けて、宇宙の果てすら超えてる。
だから、たとえ今日わたしたちを襲う絶望がどんなに深くどんなに大きく感じられても、神のふところはそれよりもっともっと大きいんだということ。
ラハブはレビヤタン(海の龍)と呼ばれることもあるんだけど、ヨブ記 40:20 に至っては、神はレビヤタンを「小鳥のようにもてあそぶ」と言うんだ。
オレの絶望よ。。。いますぐ、神の手のなかで、小鳥のようにもてあそばれてくれ!!!
註)
* Cf. 詩編 40:3-4
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