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愛こそすべて~、とは、必ずしも言えないような状況で、それでも、愛は。。。

愛こそすべて~ 愛さえあれば~ 愛だよ 愛~♬

なーんて、のんきに考えていたんだけど。。。

でも、オールユーニードイスラブを歌ったビートルズのジョン・レノン(1940-1980)は、ファンに命を奪われたんだよね。。。

考えてみれば、愛がそうさせたのかも。。。

レノン愛が極まりすぎた果ての、愛の暴力。。。

今日の聖書の言葉。

悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。
マタイによる福音書 5:4 新共同訳

人類にとっての「愛」の原初形態は、やっぱり、家族愛なんだろうなー、と思う。

けど、家族愛すら、暴力性を持つことがあるよね。。。

創世記のはじめに、アダムとエバの子どもたちの間に起きた悲劇が記録されているけど *¹。。。

あれって、まさに、愛が引き起こした暴力じゃないかと思う 。

いっぱい、いっぱい、愛しているからこそ、愛が引き起こす狂気、とでも言ったらいいだろうか。。。

まあ、「狂気」と言っても、それは、第三者が観察した場合の評価であって、当の本人にしたら、100パーセント自分が正しい! だって、こんなに愛してるんだから! という確信しかないわけで。。。

。。。うーん。。。やっぱ、狂気か。。。

愛の理想を追求した人たちが、とことんやり抜いた挙句、とんでもないオカシナことになってしまった、っていうのは、歴史のなかで、何度も繰り返されている。。。

神の愛の追求の果てに繰り広げられた、十字軍、異端審問、宗教裁判。

人類愛の追求の果てに繰り広げられた、内ゲバ、大粛清、人民裁判。

20世紀の大粛清の犠牲者数は、5,000万人とも、それを超えるとも言われているけど。。。

やってる当人は、愛を信じて疑わないからこそ、そこまで残酷になれるのかもしれない。。。

オソロシイことに、愛を確信するゆえの暴力は、21世紀の今なお、世界のいろんなところで進行している。

だとしたら、愛さえあれば~♬ では、悲劇はオワラナイことになってしまう。。。

悲しむ人々は、幸いである
その人たちは慰められる

昨日までの世界線を生きていた自分なら、きっと、次のように言ったかも。。。

悲しむ人を慰めることができるのは、愛だけだ、って。

でも、今日の世界線を生きている自分には、もう、それは言えない。

いったい、どのタイミングで世界線、変わったのよ。。。 わからんけど。。。

悲しみを引き起こす原因が「愛」であり、愛の暴力性であるならば、悲しむ人を慰めることができるのは、いったい、なんになるんだろうね?

この先は、まだ工事中の考えではあるんだけど。。。

愛が愛ゆえに愛の対象を自己と同一化しようとして発動される愛の暴力性。

たぶん、イスカリオテのユダがイエスを売ったのも、イエス愛の行きついたかたち *²。

そして、ペトロが最後の晩餐の夜、師を守るために剣を抜いたのも、イエス愛の行きついたかたち *³。

しかし、イエスはそれを逆手に取ることによって。。。つまり、他者の他者性を自分の身体に引き受けて、十字架で死ぬことによって、愛の暴力性を解体したんじゃないだろうか。。。

そして、復活したイエス。。。

復活したイエスの身体においては、もはや、愛の暴力性は、通用しない。

だって、一回死んで、よみがえって、いまや、不死身の存在なんだから。

われわれは、イエスと、顔と顔を合わせて、向き合う。

そのイエスに、われわれの愛の暴力は、絶対に届かない。

われわれがイエスをどうにかして自家薬籠中のモノにする、なんてことは、できないんだ。

復活したイエスは、今日も自由自在に動き回っている。。。それが、聖霊なんだと思うんだけど。。。そして、われわれに語りかけている。

「自分の十字架を背負って、ワタシについてきな! でも、それはキミの自由だからね。自分で決めるんだよ、自分で」って。

註)
*1.  Cf. 創世記 4:1-8
*2.  Cf. マタイ 27:3-4
*3.  Cf. ヨハネ 18:10

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