自由が希少から稀有になりつつある世界で、快楽原則に自分は抵抗することができるんだろうか。。。で、結論は、理論上は可能、っていう話です。
愛の暴力性について、昨日から考えている。。。
それについての自分の考えは、まだまだ工事中。
だけど、もうちょっと、続けてみよう。
昨日の思考の最後のライン。。。
復活したイエスは、今日も自由自在に動き回っている。。。それが、聖霊なんだと思うんだけど。。。そして、われわれに語りかけている。
「自分の十字架を背負って、ワタシについてきな! でも、それはキミの自由だからね。自分で決めるんだよ、自分で」って。
自分の十字架を背負って、ついてきなさい、というイエスの招き。
これは、イエスが万人にあたえている招き、という意味で、「一般召命」って神学的には言うんだけれど。。。
この招きが、「招き」として成立するには、招かれた側に、意志の自由が、ちゃーんと保障されないといけないんだよね。
だって、強制や、利益誘導や、心理操作があったら、招きに応える自由な意志決定が、できなくなっちゃうもん。
だから、自分の十字架を主体的に取ってイエスについていく自由は、つねに、イエスについていかない自由をも、要請することになるんだ。
そう考えると、「福音と自由」は、同じコインの裏表、ってことになるのかもしれないねー。
今日の聖書の言葉。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
マタイによる福音書 7:12 新共同訳
もし、自分が、快楽原則で生きているとしたら。。。
快楽原則。。。それは、最小の努力によって苦痛を回避する生き方、ってことになるんだけど。。。
自分が快楽原則を至上としていたら、他人にも快楽原則を求めることになるよね。。。
人にしてもらいたいと思うことは何でも
あなたがたも人にしなさい
まあ、苦痛を回避する生き方、って、ふつう、と言えば、ふつう、なんだけど。。。
でも、これだと、考え方次第では、他人を操作するツールとして「苦痛」を使える、っていう選択肢が出現してしまうんだよね。
で、実際、人類は歴史のなかで、苦痛をツールとして使ってきた。21世紀になった今でも、それが、世界のあちこちで進行中だ。
これのオソロシイところは、やってる当人たちは、まじめに他人を思ってやっている、って信じて疑ってないとこなんだよね。
もし、自分が「福音と自由」を生きているとしたら、どいうことになるんだろう?
人にしてもらいたいと思うことは何でも
あなたがたも人にしなさい
もし「福音と自由」を生きているのなら、他人にも同じ自由を保障しないといけないことになる。
しかも、それは、ほんとに、ほんとの、自由でないといけないんだ。
21世紀の世界の現状をみると、そういう「自由」は、もはや、この地球上で普遍的に保障されているわけでもなんでもない、ってことが、わかる。
むしろ、それは、希少なんだよね。。。
そして、今後の世界の動向次第では、希少から稀有に、なりかねない。
そうなると、幅を利かせて来るのは、快楽原則だよね。別名、エピキュリアニズム。
もし、快楽原則が「苦痛」をツールに使って自分を操作しようとして来た場合、どう対抗したらいいんだろう?
考えてみたけれど。。。
理論的には、自分は操作されないはずだ。。。
まあ、あくまで理論上は、のハナシ。
なんで操作されないか、って言うと。。。
だって、イエスはこう言っているんだもん *。
わたしについて来たい者は
自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って
わたしに従いなさい
註)
* Cf. ルカ 9:23
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