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無抵抗で死んだイエスと、強大なローマ皇帝。どっちがほんとうの王なんだろう、っていう話です。

人間と人間が一緒に生きている限り、行き違い、誤解、対立、争い、敵対、闘争は避けられない、というのは歴史が証ししているところだと思う。

なにせ、世界で最初の兄弟からして悲劇的な事件が起きているわけで。。。

争いが生じたら、対立する双方がテーブルに着いて話し合いで事を収めようとするよね。

おもしろいなあと思うのは、事態を収拾する意味の「収める」はオサメルで、政治的統治という意味の「治める」と同じ音素だ。

いかに話し合いで物事をオサメルかが政治だろうと思う。「政治とは妥協の芸術だ」という表現があるぐらいだしね。

でも、話し合いで解決しない場合には、物理的な力を行使することになる。

それは段階的には、まず経済制裁、次に外交官の追放、さらに軍事的圧力、そして戦端を開く、っていう典型的なステップを踏む。

まあ、でも、いきなり戦端を開いちゃった、っていう事態を、われわれはいま見させられているけど。。。

今日の聖書の言葉。

栄光に輝く王とは誰か。 万軍の主、主こそ栄光に輝く王。
詩編 24:10 新共同訳

理想の政治的リーダーって、どういう人物像なんだろう? 

歴史のなかで偉大なリーダーと称される人物が何人もいる。

そういう人たちが評価されるポイントは、妥協の芸術である政治を駆使していかに最大多数の最大幸福をもたらしたか、あるいは、交渉が決裂して戦端を開かざるを得なくなった場合にいかに軍事的指導力を発揮して勝利を導いたか、ってとこが見られるんじゃないかなー、と思う。

聖書は政治的リーダーを「王」と呼んでいるわけだけど。。。王なんて古いよね。。。まあ、古代人が書いた本だから、しょうがないか。。。

その聖書は、歴代のイスラエル・ユダヤの王たちが、いかにダメダメだったかを情け容赦なく描写している。ほんとダメダメ。具体例は挙げないでおこう。。。

なので、理想の王を求める聖書の目線は、人間から離れて神に向かって行くことになる。人間の王なんてダメじゃん、神に王になってもらうしかないじゃん、っていうわけだ。今日の聖書の言葉なんか、まさにそれだね。

栄光に輝く王とは誰か
万軍の主、主こそ栄光に輝く王

神は全知・全能・至善・至高だから、神が統治するならその統治は完璧。だって、神だから。。。

。。。って言うのじゃあ身も蓋もないので、もし神が「王」になったら、どんな統治になるのか、ってことも聖書は描いている。それが詩編72編だ。

王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を
助けるものもない貧しい人を救いますように。
弱い人、乏しい人を憐れみ
乏しい人の命を救い
不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。
王の目に彼らの血が貴いものとされますように。
詩編 72:12-14 新共同訳

上記で、王は民の命を贖う、って言われているところが興味深い。

あがなう」というのは、自分の命を犠牲にして誰かの命を救う行為のことを指している。

つまり、理想の政治的リーダーは、自分のためにみんなを殺すのではなくって、みんなを救うために自分の命を犠牲にする、っていうポイントで評価されることになるんだ(諸説あります)

歴史のなかで、そんな理想のリーダーがいたのかどうか。。。どうもあんまりいないんじゃないかと思うし、これからも、期待できないんじゃないかと思う。

だけれども、聖書は言うんだよね。ひとりだけ、それにピッタリなのがいた、それがイエスだ、って。

イエスはみんなのために贖いの死を遂げたからだ。

でも、じゃあ果たしてイエスが合法的に「王」に任命されてたのか、ってことについては議論がある。

自分が見る限り、イエスはちゃんと王に任命されるプロセスを踏んで「王」になったんじゃないかなー、と思っている。以下その理由を説明しよう。

まず、イスラエル・ユダヤでは、王に任命されるにあたって聖別の油を注がれなきゃいけなかった。

イエスの場合、マグダラのマリアから油を注がれた。その油は、まごうことなき聖なる油だ。だって、イエス自身がマグダラのマリアから7つの悪霊を追い出したんだから。これほど聖なるものはないよね。

次に、王に任命されるにあたってバックグラウンドテストを通過しなければならない。無罪証明だ。

イエスは逮捕されて尋問されたけど、大祭司カイアファも最高法院サンヒドリンも、イエスの罪を立証できなかった。なのでイエスはローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに送致された。もしイエスの罪が認められていれば、この送致は必要なかったんだ。

イエスを尋問したピラトは、なにも罪を見いだせなかった。そこで、ヘロデのもとにイエスを送致した。ヘロデはローマ帝国からガリラヤの行政を任せられていたので、ガリラヤ出身のイエスを裁くのは当然とみなされたんだ。もしピラトがイエスの罪を認めていたら、この送致も必要なかった。

ところが、ヘロデもイエスに罪を認めることができなくて、ピラトのもとに送り返した。ピラトはどうしたかというと、イエスを訴える者たちの面前で自分の手を水で洗ってから「イエスに罪は認められない」って宣言したんだ。ここに至る送致の回数をカウントすれば、イエスに罪を認められないという宣言は四回目になる。さすがにもう十分だろう。。。

その上で、ピラトはイエスに王の冠・王の衣・王の杓を授け、ローマの軍団をイエスの前にひざまづかせて「ユダヤ人の王様、万歳! 」と叫ばせた。

これって、王に就任する必須アイテムを保持した人物に対して、軍団が最敬礼を捧げることによって、王として称えた、というわけだから、王の就任プロセスを形式的かつ合法的に満たしていることになるよね。

さらに、ピラトは「これはユダヤ人の王、ナザレのイエスである」とラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語で記した高札のもとにイエスを十字架につけた。ローマ皇帝の代官である総督が発布した高札だから、これは帝国による公式な布告だ。

イエスが十字架上で死ぬと、ローマ兵が遺体を検分し、死亡を確認し、墓に納め、墓の入口はピラトの命でローマ皇帝の名により封印された。

これは、イエスが合法的に王に就任し、王として布告され、王の立場をもって死んで、その事実がローマ皇帝の名で確証された、という意味になる。

もし、これを撤回できる人物がいるとしたら、ローマ皇帝しかいない。だって、ローマの軍団が「王様万歳!」とたたえて、ローマの高札で「王である」と布告して、ローマ皇帝の名で墓石を封じたわけだからね。

ところが、その後の歴史の不思議な展開でコンスタンティヌス大帝以降の皇帝はみんなクリスチャンになってしまう。これにより、歴代皇帝はイエスが王である事実を追認したことになるんだ。最後のローマ皇帝パレオロゴス・ドラガセスは、王であるイエスのために身を賭して戦って死んだ。

こうして、イエスが「王」であることは、現状だれにも撤回できない、ってことになる。

さて、ここから先は妄想なんだけどさ。。。

もし、イエスが王であることをどうしても撤回させたいと思った場合、その方法はひとつしかないんだよね。

それは、ローマ帝国を復興させて、ローマ皇帝の名によってイエスを否定すること。。。

ここから、どうして黙示録は未来に悪のローマ帝国が出現してイエスを否定するみたいな恐ろし気なことを言うのか、っていう謎が解けるのかもしれない(私見です)

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