三日坊主を超えて行くために必要なこと。
一年の終わりに反省して、新しい年は心機一転、生まれ変わった気持ちでやろう。。。
。。。と思った場合、じゃあ、古いものをどうやって処理し、新しいものをどうやって導入するのか、という課題に直面する。
古いものの処理をどうする?
物理的なものなら、廃棄とかリサイクルとか、方法はあるけど、自分の言動、思考のクセ、それが生み出す他者との軋轢は、簡単にリセットできるものではない。
奇跡的にリセットできても、新しいものをどこから導入する?
新しい言葉遣い、新しい思考方法、新しい生活習慣、新しい気の持ち方。
それらを取り入れて、身に着くまでには、時間もエネルギーも必要だ。
今日の聖書の言葉。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二 5:17 新共同訳
古い自分を過ぎ去らせて、新しい自分になる。。。
聖書が示すのは「信じる」ことによる方法だ。
どういう方法かと言うと。。。
イエス・キリストが十字架につけられて死んだときに、自分もキリストに結ばれて、キリストと共に死んだ、と「信じる」こと。
そして、イエス・キリストが三日目に復活したときに、自分もキリストに結ばれて、キリストと共に復活した、と「信じる」こと。
次の言葉は真実です。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生きるようになる。
テモテへの手紙二 2:11 新共同訳
「信じる」が、自分の主観的な気持ちに過ぎないのなら、効果が及ぶのは、自分の限度内だけ、ということになるだろう。
ところが、最近の聖書翻訳の最先端では、「信じる」は、イエス・キリストが信じた「信じる」を指す、と考えるようになってきている *。
自分が信じたことによる結果と、イエスが信じたことによる結果とでは、結果に大きな違いが生じる。
どういうことかというと。。。
ヨハネ福音書やコロサイ書やエフェソ書やヘブライ書は、イエス・キリストを世界の創造者・保持者・統治者として描いている。
つまり、イエスは、世界の運営者なのだ。
世界のあらゆる事象は、ホログラムあるいはシミュレーションなのではないか、という理論を唱える物理学者たちがいるんだけど、その考え方に沿うなら、世界の運営者が決めた設定によって、ホログラムもシミュレーションも動いている、ということになるよね。
果たして、世界がホログラムなのかシミュレーションなのか、知ることはできないけど、でも聖書は、世界の運営者であるイエスが「信じる」ところに従って、次のように世界を設定した、と告げている。
キリストと結ばれる人はだれでも
新しく創造された者なのです
これが本当なら、もう個人の気の持ち方ではない。世界の運営者が、世界をそのように設定した、というスケールの話になってくる。
自分の考え、努力、決心、与えられた時間、限度や限界を超越して、イエスが「信じる」ところに従って、イエスが願ったとおりに、そのようになっていく、ということなんだ。
そうなら、三日坊主という限界は、すでに超えられてしまっていることになるんだよねー。
註)
* たとえばローマ3:22「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」は、最新の翻訳の考え方では「イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義」(新改訳2017の欄外註で示された「別訳」)と訳すことができることになる。
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