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むかし、むかし、不思議な四本の木がありました。そうして、いまも。。。っていう話です。

むかーし、むかーし、そのむかし。。。

まだまだ、むかしの、そのむかし。。。

もっともっと、むかしの、そのむかし。。。

あるところに、不思議な四本の木が生えていました。

一本目の木は「わたしの実はあまいよー!」と叫ぶのですが、実際にはとても苦い実をむすぶので、それを食べた旅人は、ぺっ、ぺっ、と吐き出してしまうのでした。

二本目の木は「わたしの実はあまいよー!」と叫びながら、その口で自分の実を全部食べ尽くしてしまうので、だれひとりその実にありつくことができませんでした。

三本目の木は「わたしの実はあまいよー!」と叫びながらも、自分の気に入った旅人だけに実を食べさせていたので、実をもらえなかったひとは失望させられました。

四本目の木は「わたしの実はあまいよー!」と叫びながら、通り過ぎる者にだれかれ区別することなく実を食べさせたので、旅人たちは心ゆくまで実を味わいました。

今日の聖書の言葉。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネによる福音書 15:5 新共同訳

。。。とまあ、ちょっと寓話を考えたのだけれど。。。

イエスというのは、絶対に四本目の木のキャラクターだろうなあ、と思う。

自分がイエスのキャラクターにあこがれる、ということは、つまり、自分も四本目の木のように生きたいと願う、ということになるんだろうと思うけど。。。

イエスが言う、豊かに結ぶ実、って、これだよね。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。
ガラテヤの信徒への手紙 5:22 新共同訳

素直に自分をみつめたとき、自分のなかに、こういう要素があるか? って問われると、いえ、ないです、としか言えない。

現実の自分は、だれかさんの指摘を待つまでもなく。。。

愛がない。喜びがない。平和を感じない。他者に寛容でない。親切でない。善意でなく悪意を抱く。誠実でない。柔和でない。節制をしない。。。

だから、あこがれるんだよね。イエスのキャラクターに。。。

だから、祈るんだよね。イエスのようにしてください、って。。。

そしてイエスは、それは可能だ、って言ってくれているんだと思う。

わたしはぶどうの木
あなたがたはその枝である
人がわたしにつながっており
わたしもその人につながっていれば
その人は豊かに実を結ぶ

なので、祈る。イエスよ、わたしのなかに、来てください、って。

すると、新約聖書はこの言葉でもって、答えてくれる。

あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
コロサイの信徒への手紙 1:27 新共同訳

イエスは、自分が生きて行く上での「希望」だ。

なぜなら、イエスは無尽蔵の富のなかから、自分のからっぽのココロに、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制を無限に供給してくれるから。

で、その供給を得たなら、自分は、あの二本目の木でもなく、三本目の木でもなく、四本目の木のように行動しないといけない。

それはつまり、今日という人生で出会うひとが、無神論者でもムスリムでも仏教徒でも多神教徒でも善人でも悪人でもロシア人でもウクライナ人でも、だれかれ区別することなく、これらの実を分けあたえる、ってことになる。

愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制

特に、いま世界が必要としている聖霊の実は「節制」だよね。抑えて、抑えて。ねえ、ジョー? ウラジーミル?

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