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よく寝る子は、よく育つ、と言うけれど、いったい、どこまで成長するの? っていう話です。

けさ、職場に向かう途中の駅で、どこからともなく幼い子の声が聞こえて来た。

たったひとこと「おとうさん」というワードだったんだけど。。。

それは、幼い子どもの魂から発せられた、すっごい素朴な感じの「おとうさん」だった。

大人の世界になると、いわゆる外連味けれんみ(俗受けを狙って、はったりを利かせたり、ごまかしたり、みせかけたり、装ったりする態度)というのが当然あるわけだけど。。。

でも、あの幼い子が発した「おとうさん」には、そういう感じが絶無だった。

ほんとのほんとに、ハートとハートがダイレクトにつながっている感覚を感じさせる「おとうさん」だったんだよねー。

その瞬間、自分はこの聖書の言葉を思い出した。。。

あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
ガラテヤの信徒への手紙 4:6 新共同訳

あの「おとうさん」が持つダイレクトな感覚。。。

それはやっぱり、父と子が同じ「いのち」を共有しているという存在論的な事実に根差したトコロから発せられたゆえの感覚なんだろうと思う。

いま自分は、父なる神から、子なる神イエスを通して、聖霊なる神を自分のハートのまんなかに受け取っているわけだけど。。。

聖霊。それは、父なる神の「いのち」そのものだよね。

その「いのち」に自分はあずかっている。

自分が? この自分が? 神の「いのち」を共有している? そんなこと、あり得るの? とか、つい思っちゃうわけだけど。。。

でも、そうだ、って聖書は言うんだよね。証拠聖句が、これ。

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
ヨハネの手紙一 5:11 新共同訳

子なる神イエスを媒介として聖霊つまり「いのち」を共有し合っている関係。それが、父なる神と自分とのあいだの関係ということになる。

こういうふうに、ハートとハートがダイレクトにつながっているなら、あの「おとうさん」という呼びかけを、この自分も父なる神に向かって発することができることになるんだよね。。。

なので、駅の階段をのぼりながら、マスクのなかで、小声でつぶやいてみた。「おとうさん」って。。。

そしたら、その瞬間、信じられないぐらい圧倒的な神の愛が、自分のハートに注ぎ込まれて来るのが、わかった。

それで、この聖句を思い出したんだ。

わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙 5:5 新共同訳

そして、思ったんだよね。。。

あの「おとうさん」という言葉を発した子は、その共有している「いのち」のゆえに、おとうさんに似た大人に成長していくんだろうなあ、って。

それと同じように。。。

父なる神と「いのち」を共有している自分は、父なる神と似たような大人に成長して行くんだろうなあ、って。

それはつまり、子なる神であるイエスにおいて体現されたキャラクターに似た者に、自分がなって行く、ということを意味する。

証拠聖句が、これ。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
ローマの信徒への手紙 8:29 新共同訳

あらかじめ、そうなるように定められている。。。そりゃ、同じ「いのち」を共有しているわけだから、いのちの働き、いのちの現れによって、似た者になってしまうわけだよね。。。

じゃあ、いったい、どこまで似た者になってしまうんだろう?

それは、これ。ここまで。このレベルにまで似た者になってしまう。。。っていうのが、今日の聖書の言葉なのだと思う。

今日の聖書の言葉。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
コリントの信徒への手紙一 13:4 新共同訳

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