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さあ、箱から飛び出して、広い世界に出て行こう、っていう話です。

自分が生きていてエネルギーを感じるのは、やっぱり、前へ、前へ、進んで行こう、と思っている状態のときだよね。

それが失速してしまうと、歩みを止めてしまうことになる。

でも、歩みを止めるためには、なにかの口実が必要だ。

口実としては、あれ・これ・それ・といったモノに執着する、という形を取ることが自分の場合は多いなあ、と思う。

そういう執着の対象は、人であったり、時であったり、物であったり、場所であったり、さまざまだ。

執着の対象を抱え込んで、前にも後ろにも動かない状態。。。

それは、それなりに、居心地が良い。

でも、まあ、じゃあ、生きてるーっ、っていう実感がするか、って言うと。。。

どうもね、弱いと感じる。。。個人の感想です。

今日の聖書の言葉。

あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
マタイによる福音書 28:6 新共同訳

神の本を読んでいると、肩透かしを食う印象を持つことがある。これも個人の感想です。

たとえば、どんな「肩透かし」があるかというと。。。

約束の地に入った。。。でも、敵に土地を奪われた

エルサレムに神殿を建てた。。。でも、跡形もなく破壊された

イエスの遺体を墓に納めた。。。でも、墓はからっぽになっていた

復活のイエスに出会った。。。でも、気づいた瞬間に消えてしまった

エルサレムに教団の本部を構えた。。。でも、迫害で散り散りバラバラに

。。。とまあ、こんな感じだ。

ここまで連続的に肩透かしが用意されているとなると、そこに明確な神の意図があるとしか思えないよね。

モノに執着するには、対象を自分の理解という狭い箱に取り入れて抱え込む、という動作が必要だと思うんだけど。。。

でも「神」はそれを拒むかのように、われわれの理解を繰り返し、繰り返し、超越して行く。

そりゃ、そうだよね。神は永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知であるわけだから、われわれの理解という狭い箱に神を閉じ込めておくことなんて、できないんだ。

あの方は、ここにはおられない
かねて言われていたとおり、復活なさったのだ
さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい

箱のなかをのぞくと、それは、からっぽだ。

じゃあ、イエスにおける「神」は、どこに行ってしまったんだろう?

福音書記者ルカは、復活したイエスについて、こう記している *。

イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった

これを見ると、イエスは、前へ、前へ、進んで行こうとしていることがわかる。

復活の衝撃で墓の入口を塞いでいた丸い石はコロコロ転がって行った。。。それがほんとの Rolling Stone で、だからそれが Rock & Roll じゃないかと思うんだけど。。。

その転がる墓石よりも早く、遠く、どこまでもイエスは進んで行こうとする。

復活のイエスは、復活しているわけだから、スゴイ生き生きとしているのは、あたりまえだよね。究極の生命力と躍動感に満ちているんだ。

じゃあ、われわれはすべての人・時・物・場所への執着や愛着を断ち切って、この世を後にして、すでにはるか遠く前のほうをグングン進んでいるイエスのあとを、必死に追いかけて生きればいいんだろうか?

神の本がミステリーだなあと思うのは、マルコによる福音書の後ろに付いている「長い末尾」に、こういう言葉が載っているところだ。これだ。

弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
マルコによる福音書 16:20 新共同訳

これを読むと、われわれはイエスを追いかける必要はない、ってことが示唆されている。

主は彼らと共に働き

むしろ、イエスはわれわれといつも・たえず・つねに・一緒に生きていて、そのイエスがグングン進むものだから、そのイエスに駆動されて、われわれも前へ、前へと進んで行く、っていうことになる。

その事実を確証するかのように、マルコによる福音書の後ろに付いている「短い末尾」はズバリこう言っている。

イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。
マルコによる福音書 結び二 新共同訳

箱から飛び出して、前へ、前へと進むイエスは、われわれを通して生きている。だから、われわれもイエスと一緒に飛び出して、前へ、前へ、進んで行くことが可能にされているんだ。

それは、いつか・どこか・だれか、の話ではない。きょう・いま・ここで・この瞬間、自分に起きていることなのだ。

註)
*  Cf. ルカ 24:28

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