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この宇宙は演算された仮想現実? っていう話です。

世界シミュレーション仮説というのがある。実は、この宇宙は演算された仮想現実なのではないか、という考え方だ。

今日の聖書の言葉。

地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。
詩編 24:1 新共同訳

人間は、言語の能力を持っているので、〇〇に出会ったとき、それに「猫」と名前を付けることによって、それは猫だ!と容易に認識することができるようになる。便利なものだねー。

この能力のすごいところは、〇〇について考えたとき、それに「世界」と名前を付けることによって、自分の認識の小さなポケットに収めてしまえる、ということだ。ほんとうの世界はポケットなんかに収まるはずがないのにね!

考えてみれば、自分、ほんとうの世界について何も知らないんじゃないかと思う。

南アフリカの喜望峰の先端に立って左手の太平洋の色と右手の大西洋の色が確かに違うというのは、この目で見たことがあるけれど。その場所が、自分が行けたこの世界のいちばん果ての地点だ。

じゃあ、アンドロメダ大星雲の〇〇という恒星の周りを巡る〇〇という惑星の〇〇という岬に立ったことがあるか、と言われたら、それは無いわけで。。。

見たことが無いもの、触れたことが無いもの、聞いたことも無いもの、考えも及ばないもの、これからこの先も決して知ることがないであろうもの。。。数え上げてみれば、そういうのは無数にあると思う。

でも、世界=セカイというわずか三つの音素で出来ているこの言葉の中には、それら無数の未知のすべてが含有されていて、それが自分の小さなポケットに収まるんだよね。

収まっているのである以上、だから、考えないわけには行かないんだ。この「世界」が、いったいどこから出来しゅったいしているのか、っていうことを。。。

地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの

世界とは何かを考えるのが「世界観」であるわけなんだけど。。。

冒頭で、実はこの宇宙は演算された仮想現実ではないかとする世界シミュレーション仮説について触れた。

これって、最新の世界観のひとつだよね。

世界シミュレーション仮説がほんとうなのか、どうか。。。まあ、考えても、考えても、答えは出ない。だって、世界というのは再現して検証することができないものだから。いわゆる、再現不可能性、っていうやつだ。

どうして再現不可能かと言うと。。。世界がシミュレーションかどうか再現テストするためには、宇宙の全現象を演算する計算装置を用意しなきゃいけない。で、その規模の情報量を演算装置で処理するためには、莫大な熱量が必要になる。どれぐらいの熱量かと言うと、この宇宙が提供可能な熱量を超える熱量が必要になってしまうんだ。

つまり、世界を演算するには世界より大きな熱量が必要になり、しかし、われわれは世界内存在なので、そんなものは用意できっこないから、世界は再現不可能、ってことになるんだよね。

まあ、とりあえず、世界シミュレーション仮説が「正しい」と仮定してみよう。

すると、じゃあ、この世界よりも大きいと言うその演算装置は誰が作ったの? っていう疑問がわいてくる。

で、その演算装置が置かれた上位の世界もまたシミュレーションなのだとしたら、それを動かすさらに上位の演算装置があるの? ってことになるよね。

つまり、世界より大きい演算装置は、さらに大きい演算装置によってシミュレートされている、ってことになりかねない。

でも、そうなると、そのより大きい演算装置は、さらに大きな演算装置がシミュレートしてて、それをやってる演算装置は、もっと大きな演算装置がシミュレートしてて。。。ってなって、どこまでもキリが無いことになる。

しかし、もし、それよりも大きなものがないような、究極の演算装置があるのだとしたら、いったいそれは、なんなのだろう?

ここまで来ると、自分は中世の神学者アンセルムスの「神の存在証明」の議論を思い出してしまうんだ。「神とは、それより大なるものが考えられ得ないところのもの」 (aliquid quo maius nihil cogitari potest) っていうやつだ。

で、思い出した瞬間、なんか全身脱力してしまうんだよね。。。だって、こと「世界」に関しては、最新の世界観の主張を見てみても、中世の神学者のそれとなんだか大差がない感じがするんだもの。。。

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