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今日も自分はからっぽ。。。それで、いいじゃん! それが、いいじゃん! っていう、スゴク開き直った話です。

ほとけの顔も三度まで、って、よく言うけど。。。

あのひと、どこまでやったら怒り出すかなあ、なんてこと、ココロのなかで想像しながらも、やっぱり他人を試すようなことは、実際にはしないわけで。。。

でもねー。。。

あれっ? オレ、いま、試されてる? って感じることは、ときどき、ある。。。

もうね、ぐぬぬっ、って来るギリギリの線まで攻めて来るヤツとか、いるよね。たまーにだけど。。。

で、こっちは、ほとけさまじゃあないから、ぐぬぬっ、の一線を越えて怒りを爆発させてしまう、ってわけ。。。

そんなとき、自分の器の小ささをひしひしと感じてしまう。

今日の聖書の言葉。

恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに。
歴代誌上 16:34 新共同訳

旧約聖書のなかに、大飢饉に見舞われた家を、ひとりの預言者が訪ねるシーンがある。

あまりの飢饉だったから、その家の親子は最後に残った小麦と油でパンを焼いて、それを食べたら心中しよう、というところまで追い詰められていた。

ところが預言者は、この壺の小麦も油も、尽きることは無いだろう、って言ったんだ。

そしたら、ほんと、そのとおり、壺から小麦と油がわいて来て、それは、大飢饉が終わる時まで続いたと言う *。

それを思い出したんだけど。。。

感想は。。。

まず、そんなこと、あるかよ? って思ってしまう、自分。。。

はい、はい。科学的に考えて、ありえない話ですねー(棒読み)

次に、そんな壺あったら、ほしいよ、って思ってしまう、自分。。。

だって、お腹が空いて、しょうがないんだもん。。。

その次に、いや、お腹だけじゃない。ココロも空っぽだよな、って思ってしまう自分。。。

尽きることのない小麦と油と愛情で、お腹もココロも満たしてくれる、謎の壺があったら、どんなにいいだろう。。。

と、ここで突然ココロのスイッチがカチッと入って、光りに照らされた。

そうか。。。大飢饉っていうのは、この自分のココロの状態じゃん!?

で、壺っていうのは、イエス・キリストじゃん!?

大飢饉そのもののようなココロの自分は、だれをも満足させることはできないプアーなパフォーマンスしかできないけれど。。。

だから、そんな自分にみんなガッカリし、ガッカリするみんなを見て、自分は、さらにガッカリするわけだけど。。。

でも、イエスがいるじゃん!

イエスは、尽きることのない神の無限の供給じゃん!

こんな自分のメンタルだけど、そのド真ん中に神の無限の供給をゲットして、生きて行こう。

今日も自分は空っぽ。それでいいじゃん! それがいいじゃん!

恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに

註)
*  Cf. 列王記上 17:7-16

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