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囲炉裏端の思い出

もう15年以上も前のことになる。礼拝が終わって、84歳の老婦人と共に愛餐の食事をしながら、その幼い日の思い出を小一時間うかがったことがあった。

東北の大きな農家で育った彼女は、大家族の末っ子で、囲炉裏端の「主人の座」を占める父親の、そのあぐらの上が、彼女の定席であったという。父親は、クリスチャンではなかったけれど、度量がとても大きい人で、父親が怒ったのを見たり、父親から叱られたりした記憶が、まったく無いという。

その度量の大きさというのは、本当に大したもので、彼女が幼い頃には、村によく「乞食」が物乞いに回って来たのだけれども、彼女の父親は、乞食なら誰彼選ばず必ず家に上げて、囲炉裏端に座らせ、まず一杯のお茶と菓子をふるまい、じっくり身の上話だの乞食旅のあちこちの土地の見聞録だのを聞き、夕方になると、「まあ食事をして行きなさい」「まあ風呂に入って行きなさい」「まあ泊まって行きなさい」と勧め、最後には、「どうだ、乞食をやめて、ここに落ち着かないか。その気があるなら、仕事も世話してあげるし、家も建ててあげるし、好い人がいるなら結婚の世話もしてあげよう」と言って、本当にその通り、世話してもらって、敷地の隣りに家を建ててもらって、祝言を挙げ夫婦となって住み着いた乞食がいたという。

今日の聖書の言葉。

気前のよい人は自分も太り 他を潤す人は自分も潤う。
箴言 11:25 新共同訳

そのような度量の大きさだから、家に来客が絶えることがなかったという。来客が絶えないのだから、彼女の父親は朝から晩まで囲炉裏端に居て、火箸を手にずっと灰をかき、湯をわかし、茶を煎れて勧めていた。来客の中には、毎年回って来る富山の薬売りもいて、来れば風呂に入れ、食事をもてなし、泊めるのが、常であった。

いつでも客を泊められるほど大きな農家であったが、けっして小作人を使う地主であったわけではない。その辺りは地味が豊かで土地も平らであったから、小作人はひとりもおらず、どの家も独立自営農民であったのだ。

彼女の父親は、あちこちに田畑を持ち、それらは息子たちにすべて任せておいて、家では牛、馬、ヤギ、豚、鶏、鯉、カイコを飼い、中でも養殖の鯉は一匹一両(当時で100円。今の価値に換算すれば一匹100万円)で売れて、家計の大事な副収入となったという。それほど高価な鯉であったのに、結核やインフルエンザで弱り果てて、病の薬として当時貴重な「鯉の生き血」を求めて訪ねて来た人には、父親はすぐさま鯉をしぼって血をわけてやり、「病気で困っているのだから」と、どんなに言われても決して代金を受け取らなかった。

これほど度量の大きな人であったから、村の人々から頼りにされ、ある時、青年学校の生徒がみんな反抗して授業をボイコットしたときなどには、彼女の父親が頼み込まれて青年学校に出向き、生徒に話をして聞かせたという。いつでも囲炉裏端で来客相手に話をする「ストーリーテラー」であったわけだから、あれほど反抗的であった生徒が、みんな夢中で話に聞き入り、農作業もすっかり忘れてしまうほどであったという。

この世を去る時の言葉は、「わたしが死んでも、泣いてはだめだ。わっはっはっと大声で笑いなさい。泣いたら、後に残された者は、つらいばかりだ。だから、笑え、笑え。」 荼毘にふされた時には、家から墓地まで、親族と村人の長い長い行列が見送ったという。そうして、遺言の通り、みんなで、わっはっはっと笑いながら、父親から受けた、あのこと、このことを思い出して、話の花を咲かせたという。

クリスチャンではない人が、これほど度量の大きな人物となって、倦まず弛まず隣人に善を行い、死ぬ時は自分も笑ったし、看取る者も笑ったというのだから、クリスチャンではない異教徒に与えられる神の「一般恩恵」とは、いかばかり大きなものであるか、ただただ唖然とさせられるばかりだ。

大いなる富の中から異教徒にも惜しみなく賜物をお与えになる神の「一般恩恵」が、異教徒をこれほど光輝あるものとしているのだとしたら *、わたしたちクリスチャンは、どれほど度量の大きな人間にならなければならないことであろうか。。。

註)
*  ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』第2編2:15-16

われわれは、異教徒の著作家において、このこと(理性の光)に出くわすごとに、かれらのうちに輝いているおどろくほどの真理の光によって、次のことに注意をうながされる。すなわち、人間の精神は、たといどんなにその完全さから堕落し、よこしまになっているとしても、しかもなお、神の特別な賜物をまとい、これによって整えられているのである。もし、われわれが神の御霊こそ真理の唯一の源泉だ、ということを考えているならば、神の御霊を侮辱したい人でないかぎり、真理そのものの現われるところ、どこにおいても、これをしりぞけたり・軽んじたりしてはならない。なぜなら、御霊の賜物は、これをあなどり・はずかしめることなしには、けなすことができないからである。

あのような立派な公正さをもって市民的秩序と規律とを後世に残した古代(ギリシャとローマ)の法律家たちに、真理が現われていることを、われわれは否定するのであろうか。また、哲学者たちも、自然(の秘密)についての緻密な瞑想において、また精巧な叙述において、盲目であったといえるであろうか。論述の方法を確立し、理性にもとづいて語ることをわれわれに教えた人(異教徒)たちが、理解力をもっていなかったといえるであろうか。医術をつくりあげ、われわれのためにその労をささげた人を狂気だといえるであろうか。数学的な諸問題についてはどうであろうか。われわれはこれを狂人の妄想だといえるであろうか。いな、である。われわれはこれらのことについて古代の人々のあらわした書物を、大いなる讃嘆をもって読まずにはおれない。なぜ讃嘆するかといえば、かれらを非常にすばらしいと認めざるをえないからである。

われわれはこれら(古代の異教徒に与えられた理性の光)が、神の御霊のもっとも卓越した恵みの賜物であることを忘れてはならない。神は、人類の公共の福祉のために、かれの欲したもう人々にこれをわかち与えたもうのである。

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