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極限まで小さくなった神、っていう話です。

自分は「神」の存在を信じている。

だけど、じゃあ、神ってなによ? って言われても、なかなか説明は難しい。

だって、神だからね。。。

神が、いったいどういう「神」なのか、ってことについては、聖書にいろいろ書かれている。

具体的にはそれは神の名前というかたちで示されていて、こういうのがある。

アドナイ・シャッダイ  全能の主
アドナイ・オーラム   永遠の主
アドナイ・ガードル   大いなる主
アドナイ・ノーセー   わたしの罪を赦してくださる主
アドナイ・ツァディクヌ わたしの義である主
アドナイ・マッカデシュ わたしの聖潔である主
アドナイ・シャローム  和解してくださった主
アドナイ・シャンマー  ここに臨在する主
アドナイ・ロフェカ   わたしを癒してくださる主
アドナイ・ロイ     わたしを省みてくださる主
アドナイ・ニシ     勝利の旗である主

とまあ、いろいろ。これだけではないんだけれどね。

じゃあ、これらの名前で表示された属性をぜーんぶ足したら、それで「神」がわかったことになるか、って言うと、そういうわけでもないんだろうなあ、と思う。

どうしてそう思うかと言うと。。。

基本「神」は永遠の存在であって、それに対して、この自分は有限に過ぎないわけでしょう?

だとしたら、有限の自分の認識で永遠の神を把握することは不可能じゃん?

そりゃ、東京スカイツリーぐらいの大きさなら、高円寺あたりから眺めれば、自分の目に収まると思うけど。。。

でも、永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、そういうわけにいかないんじゃないだろうか。

現象として「神」は目に見えないわけだけど、見えないというのは、存在しないということではなく、自分の認識に収まらないサイズだから、見えないように感じるだけなんじゃないかなあ、と思う(諸説あります)

今日の聖書の言葉。

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
テモテへの手紙一 2:5 新共同訳

だから、われわれにはイエスが必要だ、というのが新約聖書の押しなんだと思う。しかも、ただの押しではない。イチ押しだ。というか、全押し。

それが描くストーリーによれば。。。

「神」は、人間とのつながりを得るために、超裏技を駆使した。

それは、永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」が、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に、赤ん坊となって降り立つ、という方法だった。それがイエスだ。

それはつまり、有限な自分が認識できるサイズにまで「神」が小さくなってくれた、ということなんだ。

問題は、じゃあ、果たして「神」にそんなこと。。。小さくなること。。。が可能か、ってことなんだけど。。。

それはでもね

アドナイ・シャッダイ 全能の主

ということを最初に宣言してしまっているわけだから。

つまり「神」は全能なので、どんなサイズにでも変身することが可能なんだ。

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