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今日は何を着る?

昨年来ずーっと在宅勤務が続いている。それでも事務所に出ないと処理できない案件もあるから、隔週で1回ぐらい出勤する。

そのときは自分の所属団体のアイデンティティーウェアを着る。

いまは夏期なので、パイロットシャツに肩章、ネクタイ、ネイビーブルーのズボンに、黒い靴下、紳士靴というスタイルだ。

在宅勤務時はロゴの入りのポロシャツを着ることが多いし、オンライン会議もそれで通してしまう。

けど、フォーマル度が高い会議は、たとえオンラインでもアイデンティティーウェアを着なきゃいけない。

スケジュール管理はGoogleカレンダーでやってるので、朝、まずやるのが出勤と会議の種別のチェックだ。

それにより今日は何を着て過ごすかが決まるからねー。

今日の聖書の言葉。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい
コロサイの信徒への手紙 3:12 新共同訳

自分はウエスタンが好きなので、ラングラーのジーンズ、大きなバックルのついたベルト、ウエスタンシューズ、長そでのチェックのネルシャツ、首にスカーフ、テンガロンハットという格好で過ごしたいんだけど。。。

でも、家人には不評だし、それじゃあオンライン会議には出れないので、ずーっとお蔵入り、どころか、もう脳内のイメージだけになってる。

ほんとうはアメリカ南部のバプテスト教会がやってるような「ウエスタン教会」をやりたいなー、と思っている、っていうか、いた。

それって、ウエスタン好きのための教会で、賛美の音楽はギターとバンジョーとフィドル、礼拝の場所は倉庫か納屋、床にはワラを撒き、洗礼槽はブリキ製の馬水槽、礼拝後は野原でバーベキューをする、というスタイルだ。

だけど、ウエスタン好きって、希少なクリスチャン人口よりもっと少ない気がするから、伝道の戦略としては、もうすでにダメなことは見えているよね。

だから、さ、やらないけど。

仕事と服装、ライフスタイルと服装、余暇と服装って、密接に結びついているよね。

聖書は、クリスチャンはスピリチュアルな服を身に着けるように、って勧めている。

これは別に特定の布地やデザインの服を着ろ、と言ってるわけではなく、人間の品性・キャラクター・スピリチュアルな資質としての「衣服」を着なさい、というメタファー(暗喩)だ。

どういう服を着ろ、と言われているかというと。。。

神に選ばれている者
聖なる者
神に愛されている者
憐みの心(オイクティルモス)同情心・あわれみ
慈愛(クレーストテース)親切・世話をする・面倒見が良い
謙遜(タペイノフロスネ)心が低い・自分を過大評価しない
柔和(プラウテース)優しさ・穏やかさ・素直さ
寛容(マクロトゥミア)忍耐深さ・辛抱強さ・長く耐える

という8種類だ。

じゃあ、どうやって、こういう「衣服」を着ればいいんだろうね? 

8つの衣服は、前半3つ、後半5つに分けて考えることが出来る。

前半の3つ「神に選ばれている者」「聖なる者」「神に愛されている者」という衣服は、いま・もう・すでに・デフォルト状態で神によりわれわれが着せられてしまっている状態の衣服だ。

えっ? スピリチュアルな意味で、自分は裸だと思っていたって? 

そうそう。自分も以前はそういうふうに感じていた。

冷たい風の吹きすさぶ世界のなかに裸で放り込まれて、なすすべもなく、地面にかがみこみ、膝を抱えているしかない、みたいな感覚。。。

でも、そうじゃないんだよ!

神はエデンの園で、裸のアダムとエバに、あたたかい毛皮の着物を着せてくれた *¹。

神が人間を裸で放置しておくことは、ないんだ。それは、スピリチュアルな意味でも、そうだ。

神は、そのひとり子イエス・キリストを十字架につけることによって、全人類の罪を完全にあがない・完全につぐない・完全な罪のゆるしをあたえた。

それだけじゃない。

神は三日目にイエスを復活させ、聖霊を通して、イエスのいのち・イエスの立場・イエスのポジションを「あたたかい毛皮」を裸の人間に着せるかのように、上からわれわれに着させてくれる *²。

いや、正確に言うと、着させてくれた(完了形) 

じゃあ、いつ着させてくれたのか、と言うと。。。

なんと、世界を創造する前から神はそのように決めていた、というんだ。

ちょっと、これは、ふつう、信じられないことだけど。。。だけど、神が決めたことだから、必ずそうなる。

なので、それを着たい・着たくない、という、われわれの意志を超越して、神は一方的にその「衣服」を、われわれに着せてくれている、ということになるんだ。

問題は、あー、それを自分はもう着ている、と自覚するか・自覚していないか、という間一髪の違いでしかないんだけど。。。

朝、目が覚める。カレンダーをチェックする。今日は何を着ようか、と考えながら、洗面所に行き、鏡の前に立つ。。。

すると、ビックリ! 

自分は裸だと思っていたのに、どういうわけか「神に選ばれている者」「聖なる者」「神に愛されている者」というスリーピースを、もうビシッと着ているじゃないの!? 

いったい、いつのまに着たんだろう。。。着たんじゃなくて、自分の意志と無関係に、神が一方的に着せてくれたんだ。眠っていた間に、ね。

これが8つの衣服の前半3つだ。

後半5つについては、これは、自分で意志して選んで身に着ける、という作業が必要になる衣服だ。

しかし、まあ、デフォルトのスリーピースはもう着ているわけだから、後半5つはアクセサリーと言ったほうがいいかもしれないね。

「憐みの心」という帽子をかぶり、「慈愛」というスカーフを首にまき、「謙遜」というスカーフ止めを付け、「柔和」という靴下、「寛容」というシューズを履く。

これらは、朝、起きて、自分が選んで、自分の意志で、自分で身に着けなきゃいけないものだ。

だから、そうしたものを、ぜんぜん着けないで外に行くことも、理論上は可能なわけだ。

向うからクリスチャンがやってくる。彼・彼女は、冷淡で、厳しくて、高慢で、怒りっぽくて、他者をけっしてゆるさない。

それは、とっても残念なことだ。

でも、それはね、自分で選んだことなんだよ。

自分の意志で帽子もスカーフもスカーフ止めも靴下もシューズも無しで外に行こうって決めて、ほんとうに出て来ちゃったんだから。

しかし、だからと言って、けっして裸であるわけではないんだよ。

「神に選ばれている者」「聖なる者」「神に愛されている者」というスリーピースを着ていることには変わりがないんだから。

それだけに、とっても残念なんだよね。。。

それにプラスして「憐みの心」慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」を身に着けてたら、どんなにか良かろうにと思うのだけど。

まあ、それらを選ぶ・選ばないは本人の自由だから、他人には何とも言えないんだけどさ。。。

註)
*1.  Cf. 創世記 3:21
*2.  Cf. ガラテヤ 3:27

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