#964「きよしこのよる」を歌いながら、えっ!?ってなった、っていう話です。
クリスマスになると「きよしこのよる」という讃美歌をよく歌う。
いつぐらいから自分はこれを歌っているかというと。。。
それこそ幼稚園のときからだねー。
べリスメルセス修道会がやっている幼稚園だったので、クリスマスには礼拝と祝会が行われた。
礼拝のなかで、子どもたちが家庭で集めた小銭を持ち寄り、正面のテーブルに進み出て、困っている人たちのために、と善意銀行に捧げたんだけど。。。
テーブルの上にぎっしり詰まれた一円玉の山。。。
翌日、その小銭があまりに重すぎて、善意銀行のワゴン車のタイヤがパンクした、ってシスターから聞かされて、びっくりした。
いやー。。。タイヤがお粗末だったのか、それとも、幼稚園のテーブルが頑丈だったのか、謎だ。。。
今日の聖書の言葉。
そういうふうに歌い慣れた「きよしこのよる」だったんだけど。。。
でも、中2でクリスチャンになってプロテスタントの教会に通うようになって、えっ!? ってなる瞬間があった。
というのは。。。
カトリックの「きよしこのよる」では
救いの御子は
みははの胸に 眠りたもう
ってなってたのに
プロテスタントの「きよしこのよる」では
救いの御子は
まぶねのなかに 眠りたもう
ってなってたから。
この「みはは」から「まぶね」へのチェンジに、あー、プロテスタントってマリアに対して微妙な距離感を持っているんだなー、って感じた。
クリスチャンたちのなかには、マリアにイエスへの取り次ぎを頼む、っていう形でマリアに祈るひとたちがいる。
それって、マリアが人類のなかで一番イエスに近い距離にいる人だから、ってことによるんだろうね。
なにせ、赤ちゃんイエスさまはマリアのうちに宿ったわけだから、マリアとイエスの間柄は距離にしたら「ゼロ」だ。
聖書も、ママに頼まれたのを簡単には断れない息子としてイエスの姿が、ちょっとユーモラスに記されているし 。。。
これって、現代口語訳にパラフレーズしたら「ちょっ、まっ、ママ、何を言い出すの? そんなのオレに関係ないでしょ?」ってなるんじゃないかと思う(笑)
マリアとイエスの距離がゼロだったことについては、アヴェ・マリアの祈りでもピンポイントで述べられているねー。
これって、どういう構造になっているかっていうと。。。
イエスは全宇宙でいちばん祝福されている存在。
だって、神はイエスにこう言ってるから。
あなたはわたしの愛する子
わたしの心に適う者 *
そして、神からイエスに向けて注がれる全宇宙の祝福は、その全量がぜーんぶすべてマリアにも注がれることになる。
なぜなら、イエスはマリアのなかにいるから。
その結果としてのこれだ。
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方
主はあなたとともにおられます
そりゃあ、そういうマリアだもん。マリアにイエスへの取り次ぎを頼んでみようか、っていう気にもなるよね。
だいたい、マリアが頼めば、イエスは「ちょっ、まっ、ママ、何を言い出すの? そんなのオレに関係ないでしょ?」と言いながらも、しぶしぶ奇跡を起こしてくれるわけだし **。
でも、自分はプロテスタントなので、マリアを介してイエスに依頼することはしない。
どうしてかというと、マリアとイエスの距離がゼロであるように、自分とイエスの距離もゼロである、ってことを信じているからだ。
おこがましくて、スミマセン。。。
その確信はどこから来るか、っていうと。。。
今日の聖書の言葉なんかは、そのひとつだよね。
イエスが神の子であることを
公に言い表す人はだれでも
神がその人の内にとどまってくださり
その人も神の内にとどまります
ほかにも、自分とイエスの距離がゼロであることを示す、こういう証拠聖句がある。
なので、ちょっと想像してみる。。。
マリアのなかにイエスがいる。イエスに注がれる全宇宙の祝福が、だから、マリアにも注がれている。
自分のなかにイエスがいる。イエスに注がれる全宇宙の祝福が、だから、自分にも注がれている。
これが、ほんとうのクリスマスの祝福なんじゃないかなー、って思う。あくまで個人の感想です。諸説あります。
註)
* Cf. マルコ 1:11
** Cf. ヨハネ 2:1-11
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