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絶対恩寵の世界に深く入って行くために必要なこと。

自分の人生を振り返ってまとめてみる行為。

自伝? 自分史? 自叙伝?

それをやろうとすると、なんか、どうしても自分視点で物事が補完されてしまって。。。

てか、改ざんされてしまって、結果、小さな成功が大成功に。大失敗がやむを得ない大人の事情に。無数の小さな失敗は無かったことになっちゃうんじゃないかなー。。。ってことを恐れる。

いや、絶対、自分、やってまうよな。。。

中学2年でクリスチャンになって以来、自分は酒を口にしていないんだけど、もし飲んだら武勇伝を語ってマウンティングしまっくっちゃうんじゃないかなあ、と思う。だって、自分の親父、酒入るとそうなってたもん。。。

自分が所属している教会では、礼拝のなかで「証し」の時間がある。

証しの機会があたえられたときは、武勇伝を語らないよう気をつけないといかんよな、と自戒しているんだけど。。。

じゃあ、逆に、失敗ばかり大げさに語ればいいのか、というと、それもね。。。マイナス語りだって武勇伝になっちゃうわけで。。。

今日の聖書の言葉。

主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。
出エジプト記 14:14 新共同訳

自分は神の絶対恩寵ということを信じている。

だから、人生で起きる全てのことは、神の恩寵によってあたえられている、と考えているわけなんだけれど。。。

。。。考えているハズなんだけど。。。

でも、いつのまにか自分の思考のなかで、絶対要因としての神の割合が排除されて、相対要因の自分の手柄がバーンって大きくなっちゃう。

聖書には「神にできないことはない」「信じればなんでもできる」みたいな言葉が書いてあるもんだから、調子よくそれらを受け取って、いけ、いけ、どん、どん、ぜーんぶ自分の信仰の「おかげ」みたいに思い始めちゃう。

いや、いや、いや、いや。。。

自分、これ、神になりかわってるよなー、と気づいて、時々、ゾッとする。

悪魔は元天使だったって言うけど、きっと、こういう感じで天使が悪魔になって行ったのかなあ、って想像する。

今日の聖書の言葉を読んで、だから、人生、立ち止まって、というか、立ち止まらされて、何もできないで、ひたすら、じーっとしていることも大切だよなあ、と思われされた。

コロナ禍にあって、自分の無力さを感じることが多いけれど、それは、いい機会なのかもしれないね。

絶対恩寵の世界に深く入って行くための機会として。

主があなたたちのために戦われる
あなたたちは静かにしていなさい

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