無限で無尽蔵の富が、自分のすぐそばにある、っていう話です。
無限とか無尽蔵とかいう概念へのあこがれって、あるよねー。。。
自分も、さびしいふところに手を入れながら、求めてしまう。。。
そういう、無限とか無尽蔵へのあこがれって、どういうふうに生じたんだろう?
これは想像だけど。。。
遠い昔、ご先祖さまが狩猟に出かけて一日苦労したあげく、空の手で家に戻らなければならなかったとき、ため息をつきながら、ああ、明日はどうか野原が獲物で満ちていますように、って祈ったんじゃないだろうか。。。
ご先祖さまのなかには、祈りを絵にして洞窟の壁に描いたひともいたんじゃないかと思う。ラスコーの壁画とかって、それだよね。
もう少し近い遠い昔、ご先祖さまが天候不順でやせほそった穂を手にして、期待した収穫がほとんどできなかったとき、やっぱり、ため息をつきながら、ああ、来年はどうか畑が黄金の穂で満ちますように、って祈ったんじゃないだろうか。。。
ため息は祈りとなり、その祈りは、無限で無尽蔵の富へのあこがれとなっていったんじゃないだろうか、と想像する(諸説あります)
今日の聖書の言葉。
たくさんのご先祖さまの墓標の上に立つ現代のわれわれは、今日もやっぱり、ため息をついている。
景気が減速し始めたアメリカで昨日、株価が1,000ドル以上値下がりしたので、資産が溶けて顔が青いひともいるんじゃないかと思う。
やっぱり現代のわれわれも、ご先祖さまと同じように祈るしかない。どうか、明日こそは株価が上がりますように、って。
だからこそ、今日の聖書の言葉は、耳にとっても心地よいよね。
だって「あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」って約束しているんだから!
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて
キリスト・イエスによって
あなたがたに必要なものを
すべて満たしてくださいます
でも、上記のキモは「キリスト・イエスによって」っていうところなんじゃないかと思う。
神の無限で無尽蔵の富が、自分が指定する方式でゲットできる、っていうわけではなくて。。。もしそうだったら、やばいよね。だってさ(以下略)
そうではなく、神の無限で無尽蔵の富が、イエスの指定方式で自分に供給される、ってところがポイントだ。
そうなると問題は、イエスの指定方式って、どういうのよ? ってことになるわけだけど。。。
以下は、自分が理解している限りにおける、その指定方式だ。
まず、神の無限で無尽蔵の富を受け取るためのイエスの指定方式は、どこか遠くにある理解不能な何かではない。
そうではなく、それはむしろ、内在的で内発的なものだ。
驚くべきことに、イエスの指定方式は、この自分の内側から願望となって発現して来る。証拠聖句が、これ。
じゃあ、自分の心を通して発現する願望・であるところの・イエスの指定方式って具体的に何か、って言うと、それは「復活への願望」ってことになる。
これは、ほんとうだと思う。だって自分も復活したいと思っているし。
典型的にそれが示されているのが、ここだ。
神の無限で無尽蔵の富の供給を受けて、自分がいつか栄光の体に復活することができるのであれば、それは、今日の自分の生き方に良いほうに影響するよね。
もちろん、心配なこと、悩むこと、悲しいことは、いろいろあるけれど。。。
それでも、自分は復活したい・そして・復活することが出来る・なぜなら・神の無限で無尽蔵の富の供給によって自分は必ず復活させてもらえるから。
その「復活」を保証してくれるのがイエスだ。そのためにイエスは十字架にかかり、三日目に復活してくれた。
復活のイエスは自分のすぐそばにいて、復活を保証し続けていてくれる。
イエスがすぐ近くにいる、ってことの証拠聖句が、これ。
自分は目に見えないイエスを見ようとする。すぐそばにいるイエスを。
主はすぐ近くにおられます
それは、神の無限で無尽蔵の富が自分のすぐそばにある、ってことを意味するんだ。
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