戦わないで超然として生きる、っていう話です。
きのう、防衛問題の専門家からお話を聞く機会があった。
そのなかで、どうしたら戦争を防ぐことができるか、というトピックがあったんだけど。。。
戦争が起きない方法のひとつに「完全情報」がある、っていうことだった。
完全情報とは何ぞや、というと。。。
たとえば、Aという国とBという国があって、AはBを攻撃しようとしている、と仮定しよう。。。
そのとき、もしAとBの戦争の結果を事前に完全に予測できた場合。。。それが完全情報なわけだけど。。。。
それによってAが確実に敗れることが判明した場合には、Aは絶対にBを攻撃しない。
。。。っていうことが数学的に証明されているんだって。
だけれども、現実の世界では戦争は起きてしまうよね。
その理由は、いまのシミュレーションの技術では完全な予測をすることが難しいから、ということみたい。
予測しきれない部分が少しでも残っていると、万一の可能性に賭けて勝負に出てしまう、っていうのが人間の習性なんだなー、と思った。
今日の聖書の言葉。
世界には戦争が起きているけれど、この自分のなかにも戦争が起きている。
それは、自分と自分の戦い。自分と他者との戦い。良心と欲望との戦いだ。
戦争なんか起きなければいいのに。。。世界にも自分のなかにも、って思ってしまうんだけど。。。
でも、現実には今日も自分のなかに戦いがある。
世界で起きている戦争については、最近はネットで「今日の戦況報告」を見ることができる。
ほんと、毎日一進一退の状況だよね。
じゃあ、自分のなかの戦いについての「今日の戦況報告」はどうだろう?
それも、毎日一進一退だ。。。
そんなことを考えながら今日の聖書の言葉を見て、思ったんだ。
もしかして、これって「完全情報」じゃね? って。
キリスト・イエスのものとなった人たちは
肉を欲情や欲望もろとも
十字架につけてしまったのです
神の情報処理能力のキャパは無限なので。。。だって神だからね。。。神は永遠から永遠にわたるすべての事物の帰趨を完全に把握している。
それが神の属性としての「全知」(オムニセンス)だ。
神がリークした「完全情報」によれば。。。
ほんとうに不思議なんだけど、イエスが十字架で死んだとき、自分もイエスとともに十字架につけられて死んだ・だから・自分の欲望も死んだ、ということになっている。
どうしてこんな論理が成り立つのか、っていうことについては略。
ほんとうだろうか? てか、自分の欲望、ぜんぜん死んでないんですけど?
でも、良心と欲望の戦いは、その戦端が開かれる前から勝負が決している、って神からの完全情報は告げている。
現在も過去も未来もすべて見通している神の目には、自分の欲望はすでに死んでしまっているのだ。
だとしたら、もう戦いには意味はないよね。
ただ良心の勝利を確信して、欲望に対しては超然としていればいい、ってことになる。
超然として生きる。それが水の上を歩くってことなのかもしれないなー、と思った。
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