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#982 沈黙を通して迫ってくる、ほんとうのこと、っていう話です。

人間の存在を内側から駆動するドライブみたいなものがあるんだろうなあ、って日頃から感じているんだけど。。。

なんか、それによって自分がつき動かされている、っていう感じ。。。

じゃあ、そのドライブがいったい何を志向しているか、っていうと。。。

それはまあ、簡単に言えば「ほんとうのこと」なんだろうなあ、って思う。

じゃあ、その、ほんとうのこと、って何なのよ? って言われてもね。。。

そりゃ、なかなか簡単には説明できないことであって。。。

だってさ、イエスだってローマ総督ポンテオ・ピラトから「真理とは何か?」って尋問されたとき、黙っていたわけじゃん?*

ほんとうのこと、っていうのは、あまりにボリュームがありすぎて、イエスですらひとことじゃあ言い表せない、ってことなんじゃないかと思う。

今日の聖書の言葉。

約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
ヘブライ人への手紙 10:23 新共同訳

でもねー。。。

イエスは別の場面では、真理とは何か、ってことについてサラッと言っているように見えるところもあるんだよね。。。

たとえば、これ。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書 14:6 新共同訳

上記の言明によれば、ほんとうのこととは何か? それはイエスだ! ってことになる。

なーんだ。真理とは何か、ってことについて、超簡単に言ってのけているじゃん、イエス?

でも、だとしたら、イエスはピラトから尋問されたとき、どうして「わたしが真理です」って答えなかったんだろう?

ここから先は想像なんだけど。。。

もしイエスが「わたしが真理です」って答えたら、ピラトは興味津々になって「いったいどういう仕組みで、あなたが真理だと言えるのか?」って質問するに違いないよね。

で、もちろんイエスはそれに対して、スパーッて答えることができたはず。

すると、それを聞いたピラトは、いよいよ興味津々になって、のめりこむように質問を畳みかけて行ったはず。

そういう問答が続いていって、どうなるかというと、最終的にイエスは「ほんとうのこと」の全貌について、のこらずぜーんぶ説明してしまうことができたに違いない。

そうしたら。。。もしかしたらピラトはイエスが救い主だということを信じるに至ったかもしれないよね?

歴史に「もし」は無いけれど。。。

もし、ピラトがイエスを救い主と確信してしまったら、どういうことになるかというと。。。

イエスを十字架につけろと叫ぶユダヤの宗教指導者たちの要求を、ピラトはかるーくいなして、イエスを自分の保護下に置いたに違いない。

そうしたら、全人類の罪過の代償としてイエスが十字架につけられて、死んで、復活する、っていう宇宙的なイベントが発生しないことになってしまう。

だから、そうならないために、イエスはピラトに対して黙ったままでいたのかもしれない、って思うんだよね。

まあ、こればっかりは想像の域を出ないから、新しいエルサレムに行ったら直接イエスに聞いてみるしかないんだけれど。。。

しかし、不思議なものだよね。

イエスは沈黙を貫くことによって、ほんとうのことが、ほんとうに「ほんとうのこと」になるように、してくれたんだ。

その結果として宇宙は十字架と復活を経て、そのなかでいま自分は生きている。

自分は、内側から駆り立てられるドライブによって「ほんとうのこと」を志向して今日も生きようとするわけなんだけど。。。

その、ほんとうのこと、についてイエスは今日もしずかーに沈黙しているように見える。

なにせ、イエスは新聞に投書しないし、テレビに出演しないし、YouTubeにも出てこないからねー。。。

今日もイエスは沈黙している。その沈黙のなかに「ほんとうのこと」が、ほんとうのこととして、迫ってくるような感覚がするんだ。あくまで個人の感想です。。。

註)
*  Cf. ヨハネ 18:38

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