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最前線で戦い、負傷し、野戦病院に担ぎ込まれ。。。元気になって、また戦う。

イエスを信じて生きる、というのは、損得勘定で言うと、得もあるし、損もあるよなあ、と思う。

まあ、どんなに損(Loss)が多くても、得(Gain)のほうは「無限の祝福」であるわけだからねー。

なので「損 vs 得」の計算をした結果、つねに無限である得の圧倒的勝利にしかならないんだけど。。。

得とは何ぞやというと、端的に言えば、神を得る、ということが、それだ。

永遠で無限の祝福に満ちた神ご自身を、おこがましくも、あつかましくも、おそれおおくも、ただの人間に過ぎない自分が得る、ということ。

イエス・キリストを通して、神が自分を得る=自分が神を得る、ということが可能になった。神を得ることが天国の祝福にほかならない。

そんな計量不能な祝福を前にすれば、どんな試練も、砂粒より素粒子より小さく相対化されてしまうわけで。

だからと言って、あらゆる試練を相対化して見れる眼鏡を、いつでもつけていられるわけではない。

信仰がゆらいで、眼鏡がちょっとでもズレたら、とたんに、永遠の栄光の重みより、目の前の試練のほうがデッカク見えちゃう。

G.K.チェスタートンはこう言った。

イエスは弟子たちに
3つのことを約束した
まったく恐れがなくなり
ばかげたほど幸福になり、かつ
たえず試練に遭うことである

今日の聖書の言葉。

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
テモテへの手紙一 6:12 新共同訳

イエスに従って生きようとすると、戦いが起きる。心のなかのバトルだ。

良心をとおして示される神の御心に、自分は従うのか、従わないのか。

どちらを選ぶかをめぐる戦い、葛藤、苦悶、苦悩。。。

その戦いを、自分は今日も戦う。

戦った結果、ぼろぼろに負けて、野戦病院に運び込まれることもある。

野戦病院というのは、文字通りの野戦病院ではなく、教会での礼拝のことなんだけどさ。。。

これって、ほんと戦争に似てるよね。リアルな軍隊の運用思想では
① 戦いに勝つには戦線を維持すること
② 戦線の維持は兵士の戦闘力に依存すること
③ 兵士の戦闘力は士気に大きく左右されること
④ ゆえに、兵士を休養させ回復させて、モラール(士気)を高めること

誘惑に負けて悲嘆の底にあるときは、教会の礼拝に行き、福音を聞き、悔い改めの祈りをする。

すると、イエス・キリストの十字架と復活による赦しを体験して、元気になる。モラールを回復するのだ。

そして、戦い続ける。

キリスト・イエスの立派な兵士として
わたしと共に苦しみを忍びなさい
*

まちがいをしたときの祈り

父なる神さま、今日わたしは誘惑におちいって悪を犯してしまいました。自分もはずかしく感じておりますし、わたしを愛する者たちに心配をかけ、神さまを悲しませました。わたしをゆるしてください。

わたしを愛する者たちに、罪を告白して、ゆるしを乞うことのできる、勇気を与えてください。

ただ単に、くよくよしているだけでなく、まちがいをみごとにのり越えることのできるように助けてください。

同じあやまちを再びくり返さない決意を与えてください。

主の日の礼拝に規則正しく出席し、み言によって養われ、み霊の力に導かれることを決心いたします。この決意をつらぬき通すことができるよう助けてください。

また、与えられている信徒の交わりのうちに、積極的に加わることができますように。アーメン

佐伯倹『わたしたちの祈祷集 天の父よ』日本基督教団出版局、1970年、p.42

註)
*  Cf. テモテへの手紙二 2:3

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