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病気、健康、豊かな命について、考えてみた。

みんな健康に気づかって生活しているけれど、このコロナ禍で、いままで以上に注意を払うようになったよね。

今日の聖書の言葉。

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。 誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書 17:9 新共同訳

とらえ難く病んでいる。。。

病気って、そもそもなに?と考えた場合、聖書は「とらえ難く病んでいる」と言うから、もうね、定義不可能なほどに病んでいる、ということになる。

だけど、それを言っちゃぁオシマイなので、健康の定義を考えることで、病気を考えて見たい。

1947年のWHO憲章は「健康」を次のように定義している *¹。

健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。

「健康」とは、肉体的・精神的・社会的なニーズが、すべて満たされた状態だという。これって、ヨハネによる福音書10:10に出て来る「豊かな命」という表現を思い起こさせる。

そうすると、豊かな命の逆、つまり、肉体的・精神的・社会的なニーズのいずれかが充足されていない状態は、病気ではないにしても、健康ではない状態、ということになるよね。

こうなると、いわゆる病気ではなくても、病み気味、病んでるっぽい、健やかではない状態のカテゴリーが、ぐーんと広がることになる。

過去にWHOでは、上記の「健康」の定義に、霊的(スピリチュアル)な要素を加えるかどうか熟議したんだけれども、1998年の理事会では結局、スピリチュアルは入れないことにしたんだって。まあ、理事国には、無神論を標榜する国家もいるわけだから、そう簡単にスピリチュアルを加えることはできなかったんだろう。

スピリチュアルな健康っていうのは、自分が、自分より大きな超越的存在につながっていることで、安心と安全を感じている状態、ということだと思う。

要素としては、これは結構おおきいと思う。だって、たとえば、肉体的には病気を持っていても、自分と神とのつながりのなかで、病気に意味を見出すことができるのならば、不思議ではあるけれど、病気でありながらも安心と安全を感じることは、可能なんだ。

じゃあ、スピリチュアルな意味で「健康ではない」状態は、どんなだろう?

スピリチュアルケア(パストラルケア・臨床牧会)のエキスパートであるキッペス博士 *² は、「スピリチュアルでないひと」の在り方を、次のように定義している *³。

スピリチュアルでないひと
● 人生の意義とおもな目標として、贅沢・飲食・金儲け・株・出世・名誉・権力・権威を追及すること。
● 人間は何でもできると思うこと。
● 物事を生産的・効率的観点からのみ判断すること。
● 人間を機械のように考え、取り扱うこと。

うへー。。。この定義に照らすと、自分、だいじょぶか?と思ってしまう。。。というのは、もはや過去のことだ。コロナ禍に全人類が放り込まれた結果、「人間は何でもできる」と思う人は激減し、「物事を生産的・効率的観点からのみ判断する」ための社会的基盤と条件が、あらかたぜーんぶひっくりかえされてしまった。なので、いまや、全人類的に、あらたな「気づき」を経験しつつあるんではないだろうか。

では、これに対して「スピリチュアルなひと」は、どういう姿になるんだろうか。キッペス博士は、このように定義している *³。

スピリチュアルなひと
● 本物(本物)=自分であること。
● 心・霊・魂の体験を持ち、あるいはこうした体験を期待していること。
● 過去でなく「今」、どこかではなく「ここ」にいること。自分で責任を取れる人間であること。
● 期待して待つこと。
● 病んでいる人から学ぶ心構えを持つこと。
● 病んでいる人を活かすこと。
● 病んでいる人を同じ人間同士として相手にすること。
● 計画どおりではない状態、コントロールのできない状況に耐えること。
● 人間は万能ではなく、限界のある存在であり、死ぬことと死を認識していること。
● 自分自身の遺言や葬儀のやり方を作成する勇気を持つこと。
● 解決できない問題を生きること、あるいはその問題と共生すること。
● 自他の尊厳。
● 自他を大切にすること。
● 謙遜、柔和であること。
● 自愛。
● 真理に基づいている人生を送ること。
● 真実を語ること。
● 沈黙や静けさに親しんで、それらに慣れていること。
● 祈れること。
● 独りでおり、孤独や疎外されていることを耐えること。
● 退屈を耐えること。
● 無力を耐えること。
● 何々をする人より、何々である人になることに中心をおくこと。
● 物事をゆっくり味わって生きること。
● 信頼できること。
● 不思議がる心を持つこと。
● 感動する心。
● 自分の価値観、長所を知っていること。
● 自分の哲学と人生観を持ち、人生の意義即ち、生きること、苦しむこと、死ぬこと、死の意味を追求すること。
● スピリチュアルな人とは、以上の特質を完璧に持っていることを意味するのではなく、これらの状態を目指し、身に付けようとする目標を持っている人である。

この定義って、あらためて読んでみて、すっごい感動する、っていうか、もはや、このウィズコロナ時代の生き方の「基本指針」たり得るんじゃないの?と思ってしまう。

自分的に、次の要素が、特に心に刺さった。まさにいま、コロナ禍の中で自分が必要としていることばかりだ。

● 期待して待つこと。
● 計画どおりではない状態、コントロールのできない状況に耐えること。
● 解決できない問題を生きること、あるいはその問題と共生すること。
● 祈れること。
● 独りでおり、孤独や疎外されていることを耐えること。
● 退屈を耐えること。
● 無力を耐えること。

そういうふうに、なりたい。なれますように。そのことを求めて、イエス・キリストをとおして、神に祈ろう。

註)
*1.  WHO憲章前文

*2.  ヴァルデマール・キッペス(Waldemar Kippes)は、NPO法人臨床パストラル教育研究センター理事長。文学博士。1930年ドイツ生まれ。1956年来日、鹿児島県にて司牧活動に従事。ラ・サール学園、鹿児島大学、上智大学、南山大学、アントニオ神学院講師を経て1995年久留米聖マリア学院短期大学教授。1976年より東京「いのちの電話」スーパーヴァイザー、1991年姫路聖マリア病院で臨床パストラルケア教育の指導、1998年臨床パストラルケア教育研修センター所長、2007年よりNPO法人臨床パストラル教育研究センター理事長。

*3.  ウァルデマール・キッペス『スピリチュアルケア』サンパウロ、pp.182-185.


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