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利己的な生き方と、利他的な生き方と、今日はどっちを選ぶんだろう、っていう話です。

人間の生き方を究極までつきつめるならば。。。

全人類を滅ぼしてでも自分だけ助かりたい、っていう利己的な遺伝子。
自分は死んでもいいから全人類を救いたい、っていう利他的な遺伝子。

この2つになるんじゃないかと思う。

この2つは現在進行形で人類歴史のなかでぶつかりあっているように思えるよね。

ぶつかり合いを経て最終的にどっちが生き残るんだろう。。。

それは自分にはわからないけれど。。。むしろ。。。

自分はいったいどっちの要素が強いんだろう、って考えさせられる。

利己的な遺伝子? 利他的な遺伝子?

いや。そのどちらでもなく、2つのあいだのグラデーションのなかで、ある瞬間は限りなく利己的な方に偏り、ある瞬間は限りなく利他的な方に偏り、その時々の気分でゆらゆら揺れ動いているように感じる。。。

それが自分なんじゃないかと思うんだ。

えーと。。。これって。。。なにかに似てない?

量子。。。そう、量子に似てるかも!

物質を構成する最小単位の「量子」は、粒としての状態と、波としての状態が、重なり合ったかたちで存在していて、誰かがそれを観測すると、その瞬間、粒か波かどちらかに収束する、っていうミステリアスな性質を持つことが知られている。

自分も、利己的な状態と、利他的な状態と、重なり合ったかたちで存在していて、でも、誰かに会うことで感情や行動を持った瞬間に、利他的か利己的か、どちらかに収束するんじゃないかなー、と感じる。

ってことは。。。オレって量子やん(笑)

今日の聖書の言葉。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:16 新共同訳

神の本を読むと、もうね、利他的な遺伝子しか勝たん、っていうことが、これでもかっ、と力説されている。

どれぐらい利他か、って言うと、すべての被造物を救うために「神」が死んだ、というレベルの利他だからね。その利他行の顕現がイエスの十字架だ。

物理的なサイズで言えば「神」は存在として無限であるわけだから、つまりそれは、神の自我のスケールは宇宙最大ということになるよね。

その「神」が、神以外のすべての他者を救うために、神が死ぬことを選んだ、と言うんだから、利他行としてはこれ以上がない最高レベルだと思う。

そう考えるなら、この宇宙のあるべき在り方は、もう・すでに・すべて・利他一択で決定されてしまっている、って言えるんじゃないかと思う。

だって、宇宙最大の観測者でもある「神」が、神自らを利他の方に収束させてしまっているわけだから。

その収束後の姿というのが、復活のイエスなんじゃないかと思う。

でもねー。。。利他はやっぱり、どこまで行っても利他だから。。。それはつまり、他人を尊重するってことだから、強制はしない、ってことだよね。。。

なので「神」は、ひとつひとつの被造物、ひとりひとりの人間、ひとつひとつの量子が、いったいどっちに収束するかを、あえて未決定の状態に置いていてくれるんじゃないだろうか。

その上で「神」は、オレは強制しないよ。おまえが自分で選べばいいんだ、って言ってくれているんじゃないかと思うんだ(諸説あります)

究極の利他行である十字架を経て永遠の愛に収束した復活のイエス。

十字架と復活のイエスを目の前にしながら、今日の自分は、利他的な生き方と、利己的な生き方と、どっちを選ぶんだろう、って逡巡している。。。

どっちになるかは、わからない。でも今日、他者に出会った瞬間、自分はそれを選ぶことになるんだよね。

どうかその瞬間に、宇宙最大の観測者である「神」の視線を感じることができますように。その視線によって、どうか自分が利他の方に、愛の方に、復活のイエスの姿に、収束することができますように。。。

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