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住む世界が違う人たちを垣間見る映画、これは東京だけの話なのだろうか 『あのこは貴族』

松濤に住んで、学習院や慶応を幼稚舎から持ち上がりで卒業して、
親類には開業医や貿易商や政治家が1人はいて、なんなら企業オーナーだったり、そんな僕らのような一般人の価値観とは全く違う世界で育てられてきた人達って本当にいるんだな。
そんな住む世界が違う人たちを垣間見る東京映画だった。

門脇麦さん演じる華子はいわゆる「ええとこの娘(こ)」、
いやええとこの娘どころじゃないか。
それが貴族なのかどうかは分からないくらい、知人でも見たことない人たち。
大阪にもあんな人達はいるのかなぁ。
堺商人の7代目の家に生まれた男を知っているが、僕らと同じような暮らしをしていた。
北九州の地元では有名な家でいくつもの家業を営んでいる倅の男を知っているが、いたって普通の人間だった。
(乗っている車と着ている服は少しだけ金のかかったものだったけれど)
それでも、彼らは僕らと違う世界に住んでいる訳ではなかった。

京都に行けばひょっとしたら華族のような人たちはいるのかもしれない、例えばお公家出身の人たち。
でも、僕らとは本当に住む世界が違うので、普通に暮らしている分には全く接点のないひとたち。
多分、生まれた時から普通にいわれる(主にお金に関する)苦労はしたことがないから、争いごとは無縁でおっとりした性格のそんな女性が華子。

水原希子さん演じる美紀は地方出身で東京に出てきたどこにでもいる女性。
この映画の登場人物の中ではもちろん彼女の方に感情移入しやすい。
でも、厳密に言うと大阪の普通より少し下の家に育った僕には少し違うところもある。
美紀の地元の富山では、何も考えず地元にずっといればそのまま親の家業を継いで、親と同じ暮らしをすることになる。
そういう意味では、自分の生まれた世界に閉じて暮らしているだけであれば、華子の住む世界も美紀の住む世界も大した変わりはないよね、そんなようなことを美紀が言うセリフも出てくる。

しかし、美紀はそんな地元の世界に閉じないで東京に出てくることを選ぶ。
そんな自分たちを卑下して「私たちは東京の養分だから」ていうセリフがある。
でも、東京の養分だからって、直接的に彼らに使われる訳では無い生き方もいくらでもある。
だいたい、彼らは僕らを養分とする必要すらないのかもしれない。

自分の意思で貧しくなるのも、努力して金を儲けるのも、どんな生き方をするのも自分次第。
生まれた時から、望んではいけない、望んでも果たせないものもおそらくある。
でも、そもそも僕らにはその世界すら見えていないので憧れる必要なんてない。
僕らは先祖代々が残してきたものを継承する必要もない。
残された借金を背負わされることもあるかもしれないが、昭和とは違うからいくらでも逃げる道はある。

何と言っても、僕らには自由がある。
自分の生き方を見つけるのは自分自身だ。
何を信じて、何をよしとして、自分が自分であるためにするべきことを選ぶのは自分だ。

華子は親から勧められるままに、深い考えもなしに「ええとこの」男性と結婚することを選択するが、
外の世界を生きる紀子と知り合うことで、自分の足で立って生きていこうと決める。
彼女が離婚という選択をしたことは、家同士の継承のためのシステムにNOを言ったことは、ものすごく勇気のあることなのかもしれない。
もちろん、それでも実家の経済的支援は十分に得られる訳だから、一般人の僕らとは全く違う境遇なのだろうけれど。
それでも、ラストシーンで背筋を伸ばして立つ彼女は凛としている。

どんな境遇に生まれたとしても、生きる道を選ぶのは自分。
しかしそれは「持っている」家に生まれた人間だから言える呑気な夢物語だ、
そんな批判が出るのも悲しいけれど現実だ。
それでも、自分の生きる道は自分で選べる、せめてそういう世界であって欲しい。

<了>

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