映画『ある男』〜血縁という地獄と本当の自分
日本アカデミー賞のおかげか、再上映していた映画『ある男』を観ることが出来たのでファーストインプレッションをnoteしておく。
『ある男』は平野啓一郎さん原作の長編小説で、初出は雑誌『文學界』2018年6月号に掲載。
当時雑誌掲載を読んだ時の印象は、ある男の失踪事件の調査をする弁護士とその話を聞いた小説家、そして失踪事件そのものにまつわる話と複層構造になっていてなかなか読み応えのある小説だな、というものだった。
平野啓一郎さんは「分人主義」という概念を提唱されており、
2009年『ドーン』以降の作品ではこの「分人主義」という人間観に基づく小説を執筆されている。
「分人主義」とは、これまでの「個人」を中心とした人間観、1つだけある「本当の自分」と相手によって使い分ける仮面=ペルソナ、という考え方を改め、
対人関係や環境ごとに異なる性格の「分人」がいくつもあり、それら全てが「本当の自分」だという考え方だということです。
「分人主義」については公式のサイトも立ち上げられているのでそちらを参照して下さい。
この映画の原作となる『ある男』も分人主義という人間観がベースにあるものと思われるが、いったん原作から離れて映画『ある男』としての感想を書いておきたい。
監督は石川慶さん。
過去作品としては『愚行録』、『蜜蜂と遠雷』、『Arc アーク』などで、いずれも今回と同じく原作小説の映像化を得意とされている監督。
脚本の向井康介さんとは『愚行録』でもご一緒されているようです。
***
安藤サクラ、窪田正孝、妻夫木聡の3人がメインキャストと聞いて、面白くない訳がないと思っていたが、期待以上の満足度で映画としても圧倒的に面白かった。
安藤サクラさんは本当にスゴい女優さんです。
ちょうど現在追っかけで視聴中のドラマ『ブラッシュアップ・ライフ』でも、あまりにも自然過ぎる演技だし、コメディエンヌとしても素晴らしいなぁ、と思ってみていたのだけに。
こちらは全く違うシリアスな演技で、本当に宮崎で文房具屋を営んでいるこういう人がいるみたい。
窪田正孝さんは言うに及ばず、細マッチョとご自身が取り組まれていらっしゃるというボクシングシーンも圧巻。
(そういえば、安藤サクラさんもボクサー役の映画を撮られていましたし、妻夫木聡さんもボクシングをされているような話をどこかで読んだような)
妻夫木聡さんも上手い!
二枚目の奥に隠された狂気みたいな役どころが多い印象だったが、今回は出自に影を落としているものの見た通りの実直な弁護士の役柄だった。
終始押さえた極力感情を出さないような押さえた演技だが、途中、2度ばかり声を荒げるシーンがあり、うむリアルだ、と思わずにはいられなかった。
柄本明さんは収監中の詐欺師として2度出てくるが、
いいのか!?ああいうのは!ほとんど反則技じゃないか!
という圧倒的な演技で、あのシーンだけちょっと浮いてしまっているような感じもあるけれど、あえて狙ってああなったんだろうな、と。
眞島秀和さん、ヤバいです。めちゃくちゃ鼻につく嫌なヤツを見事に演じている。
一見、ざっくばらんでオープンな人と思わせておいて、すぐに
「わ、こいつ人の話全く聞いてないし、偏見の塊や」
みたいな、とにかく嫌なヤツが目の前にいた。
仲野太賀さん、最後にセリフなしの泣き顔だけで登場するが、もはや
「泣きの太賀」と呼んでもいいんじゃないですか!?
映画『生きちゃった』とドラマ『拾われた男』のラストシーンでの泣き演技もすごかったけれど、今回はセリフなし、音声なしですからね!
小籔千豊さん、やっぱり新喜劇の役者さんは演技も上手だ。
こんな人おるやろな、っていう、名バイプレーヤーになれるんじゃない?
まぁ、そんなこんなで他にも皆さんとても印象的で素晴らしかったけれども、映画そのものも小説とは全然違った印象を残してくれた。
いや、小説よりも、数倍も余韻を残したというか、映像表現も相まって深みを持たしてくれたというか。
そもそも、話の進め方として小説では、バーで小説家と会話をしている弁護士の話から始まって、やがて過去の話、そして最後にまたバーの会話で終わるという流れだったように記憶しているが、
映画ではバーでの会話シーンは一番最後に持って来られており、小説でのシーンとは異なる使われ方「映画を余韻を持って終わらせるため」、のように感じられた。
正直、小説を読んだのは4年以上前なので詳細は覚えておらず、このnoteを書くにあたっては再読しないでおこうと思っていたので、記憶違いもあるかもしれないのだが。
そして、この映画を鑑賞中に浮かんできていた言葉が
「血縁という地獄」
育った環境で自分の人生も、自分自身も思い通りにデザインしていくことは可能性として残されてはいるのだけど、決して変えられずにいつまでも付いてまわるのが「出自」であったり「血縁」だ。
「家族という地獄」という表現も浮かんだが、それよりももっと濃くて逃れられない「血縁」の方がよりしっくり来るなと思った。
それは、窪田正孝演じる「ある男」の父親であったり、受け継いだ顔であったり、妻夫木聡演じる弁護士の「出自」であったり。
それらは、住む場所や環境、仕事を変え、挙げ句には戸籍を変え名前を変えたとしても、どうしても付いてまわるもので、そのために起こってしまう悲劇をこの作品では描いているのだろうと思った。
彼は鏡に映る自分の顔を見る度に、呪われた血を思い出さされ、自分の顔を見ることが出来なかった。
それは名前を変えて生きた4年半の新しい人生で打ち勝つことが出来たのだろうか?
弁護士をして、裕福な家庭の娘を妻にもらい、世間からはうらやまれる環境にいるであろう彼は、一時の間だけでも他人の人生を自分の人生かのように振る舞うことで、解消されたのだろうか?
正直、「血縁」という呪縛からは所詮逃れられないのではないだろうか、という思いもあったが、「分人主義」の考え方で解釈すると少し腑に落ちた感はあった。
そうした「血縁」が故の望まない自分をそれも1つの自分であると納得の上で封印しておくことで、「新しく手に入れた理想の自分」を生きるという可能性を描いているのかもしれない。
さて、もう一度、小説を読み直してみよう。
新しい発見があるかもしれない。
<了>
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