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幸福になるには、常に幸福になることを念頭に置いて行動することが必要だ。それ以外の行動は、幸福にとって無駄となる。そこで、幸福ということを常に行動の根拠の最奥に持って来なければならない。

幸福とは何か

幸福とは、その人の望みが叶っている状態である。アニータ・ムアジャーニによると、それは「ありのままの自分でいること」なのだろうが、それはその人の望みが全部叶っている状態の側面を言っているのだと私は思う。

その人の望みには生理的性質のものと、社会的性質のものとが考えられる。生理的性質は身体的な苦楽、快不快に応じた欲求だ。社会的性質のものは、この世界で何を成し遂げたいとか、これこれこういう人間でありたいとか、誰かに何かを認められたいとか、そういう願望のことである。

あるいは、他者の行いに対して生理的に反応したいが抑えているものを、開放したい、などという欲求もあるかもしれない。

とにかく、それらもろもろの欲求を叶えられれば叶えられるほど、幸福だと言えるのではないだろうか。

幸福には金が必要である

ありのままの自分を体現するのに、最も制約があるのは金の問題である。金がほとんど大体の問題を解決する。もちろん、金で解決しないことどももあるだろう。だが、金さえあれば大体の不快を回避でき、大体の願望を叶えられる。

好きなことを仕事にすれば、金の心配をせずに好きなことができるという人もいるだろう。それが出来るならそうすると良い。たいていの自己啓発のリーダーたち、たとえばアニータ・ムアジャーニであってもホリエモンであってもそういった類のことを言うだろう。

だが、好きなことが金にならず、生活ができない、といった人はどうするのか?

たとえば、ギターが好きでギターばかり弾いているのだが、上手くはなく、プロとしての才能はない、みたいな人はどうするのか。そういった場合、好きなことをではなく、出来ることをせざるを得ない。

世の中には軽度知的障害、運動障害などで、好きなことで食べていけない人もいる。私が軽度と言ったのは、福祉サービスの対象にならない人だからだ。福祉サービスの対象になる人は、障害年金で生活できる。ほら、ここににも「年金」すなわち金が出て来た。

年金がなくても、障害者は生活保護をもらえば良い。ほら、ここにも「生活保護」すなわち金が出て来た。

結局、最後にすがるところは金しかないのだ。

そこで、たいていの人は、好きなことをではなく、出来ることをして生活している。そういう、凡庸な人にとって、金こそは最大の自由のよすがとなる。出来ることを嫌々ながらするという奴隷状態からの解放は、金をもってする以外にない。それがFIREということでもあるのだ。

費用対効果の哲学

私が今回、もっとも言いたかった着想はここにある。費用対効果を常に考えて行動することである。

さっきまで私は、「金」という言葉を使っていたが、それは分かりやすいからだ。だが、ここからはもっと漠然とした概念である、「利益」と言いたい。自らに利することすなわち、金と同類でありながら、もっと広い意味での言葉が利益だ。

たとえば、投資家のBNFはストイックだ。生活資金を切り詰め、食事は数百円のうどんで済まし、余剰資金全額、株式投資につぎ込んだのだ。それが今では数千億円の資産と言われている。それはBNFが利益を考えた時、そうするのが最善だと思ったからそうしたのだ。

私は、「だから株をやれ」とは言っていない。BNFは元々株オタクで、むしろ好きなことを仕事にしているタイプなのだ。株をやっても大半の人は儲からない。

BNFの例は極端すぎるが、この例で言いたかったのは、費用対効果を常に考えて行動することだ。

漫然と動画やSNSを見たり、無計画なことをすることが無駄なのである。費用対効果を考えると、自己実現のためにする何らかの行動を常に念頭に置くべきなのだ。動画やSNSを見ても良いのだが、それが常に、自分の目標に適った行動であるべきなのだ。その行動が後々、自分の利益として返ってくるのかを、常に検討しながらやらなくてはならない。

たとえば、街でDQN系に絡まれた時、費用対効果を考えるとどうするべきだろうか?

勇敢に戦う男こそ素晴らしい、という人もいる。しかし、費用対効果としては無駄である。何の益にもならない。ただ暴力の痛みと時間の浪費を受け取るだけである。そこで、ここでは「逃げるが勝ち」となるだろう。

もちろん、大きな犯罪が絡む場合に出くわしたら、警察を呼ぶしかない。これは公共的費用対効果なのかもしれない。

そこで、私は既成概念の排除と新たな理念を提唱したい。

既成概念で良しとされていること、勇敢に戦うだとか、空気を読むだとか、迷信めいたルールとか、そういう常識的固定観念をすべて廃棄し、常に費用対効果、自らの利益に供することを眼目の最奥に置いて行動するべきだと。

そうすると、費用対効果から考えて、あからさまに社会の固定観念に反対することは上手くない。なぜなら、これらの固定観念に賛同する人が圧倒的多数なのであり、あからさまにこれに逆らうと、自らが利益を得ることに対して、妨害を被るからである。

なので、これらのことは秘密裏にスルーする能力が求められる。

利己心と利他行

この理念を念頭に置くと、必ず利己的な行動しか取らなくなる輩がいる。それは費用対効果の理念が悪いのではない。私が提唱した費用対効果の理念は、ありのままの自分を実現するためにあるのであり、そこには、他者に対する思いやりだとか、そういう気持ちも含まれた、ありのままの自分なのだ。

レベルが低い人間は、この理念によって、利己的な自己を認められたと勘違いして、社会的制約だった他者への配慮を怠る。それは、その人間に他者を思いやる気持ちがないのが悪いのであって、費用対効果の理念が悪いのではない。

その場合、他者を思いやる気持ちが育まれなかった環境を改善すべきだろう。そして、その者には、他者を思いやる気持ちを教えなくてはならない。

教えるというと、ありのままの自分ではないではないかと思われるが、そうではない。その教えられる者は、ありのままの自分が他者を含んでいるということを知らないのである。他者もありのままの自分、自分もありのままの自分ならば、自分も他者も同じ気持ちを共有するのだという視点が抜けているだけなのだ。その視点があると、他者を思いやる気持ちが、ありのままの自分の中に含まれることになる。

ありのままの自分の実現には利他の精神も含まれているのだ。

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