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「共感」ということ

 現代は「多様性」の時代だ。

 街中には(僕から見れば)個性的なファッションを身にまとった若者にあふれ、昔は目に映ることも珍しかった外国人が風景に溶け込んでいる。スカートをはいている男性も目にすることがあるし、逆に見とれてしまう程格好のいい女性を目にすることもある。コミュニケーションにおいてもまず批判はせず、共感を示すことを第一とすることが肝要であるようだ。
 多様性を尊重し、自分に対しても他者に対しても優しい社会。その実現に向けて多くの人が一丸となって動いている。いい時代になったなあとも思う。
 でもなぜか、それに(すごく微妙な)違和感を感じてしまって、諸手を挙げて賛同できない自分もいる。それはなぜなのだろう。

 すごく些細なことかもしれないけれど、僕には「共感」ということばが他者を「理解」することとはかけ離れた感情に思えるのだ(もっと言えば「共感」は状態を指しているのであって、感情ですらないのかもしれないとさえ思う)。なぜなら、「共感」は他者の「イマ・ココ」にフォーカスするものだからである。SNSは言わずもがな、対面のコミュニケーションにおいてもどうしたって「共感」は今目の前にある状況や相手の言葉に対して行われるものであるわけで、そこにはその人物に関するコンテクスト、すなわち社会的状況や生活環境、その人が生きてきた歴史がすっぽりと抜け落ちてしまう。人生相談などを受ける際そうした状況が語られることはあるけれど、それだって断片的なものにすぎない。「イマ・ココ」にフォーカスするということは、その人の培ってきた人生を、コミュニケーションの受け取り手が限定し、矮小化することに他ならないのではないか。「共感」はそうした矮小化の現代的なトリガーであり、他者を「理解すること」とはほど遠い状態をつくりだす装置なのではないか、と思う。

「共感」される側の状態も同じだ。「動機の語彙」という言葉がある。ミルズという社会学者の提唱した命題である。

動機は、ある行為の『原動力』となる内的状態というよりは、人々が自己及び他者の行為を解釈し、説明するために用いる『類型的な語彙』である」(作田啓一・井上俊編『命題コレクション 社会学』,ちくま学芸文庫,2011)

 すなわち、「動機」とは行為者の内面を的確に表したものではなく、ことばによって表現することで本来の意味から変質してしまったもの、ということであろう。言葉で、表情で、仕草で、写真で、映像で、音楽で・・・、挙げれば枚挙に暇がないが、結局のところ「イマ・ココ」で表現する場合、それは本人の中にあるイメージからはどうしても変質してしまうのだ。どれほど伝えたいことがあっても、理解されたいと願っても、表現した瞬間別の何かに置き換わってしまう。それで「共感」を得たとしても、そこには一種の虚構だけが残る。だから恋人であっても、親友であっても、夫婦であっても「わかりあえない」何かがその関係性に横たわっているのだろう。「共感」できない部分がどうしたってその人の人生のコンテクストにはあるはずなのだから。「共感」できないと思ったそのときに、きっとその人の大切な何かを「排除」してしまう。自分が信じていた相手の「イマ・ココ」という虚構が崩れてしまったら、きっと「裏切られた」と感じてしまう。芸能人の不祥事を取り上げたワイドショーやニュースなんかを見ていると、それが如実に見えてくる。僕の短い人生でもそうしたことがきっかけで離れていった人、自分から離れてしまった人もたくさんいる。

 大切なのは、相手の全てのコンテクストを「理解」することだと思う。これはすごく難しい。相手の「共感」できない部分と果てしなく向き合っていかなければならないのだから。でも、きっとお互いにそれができたなら、きっと本当の意味で互いの「多様性」を承認できるだろうし、そうした姿勢が持てたなら、目の前にいない誰かの「多様性」をも尊重しながら生きていくことができると思うのだ。勝手な考えだし、それこそ「動機の語彙」でしかないかもしれないけれど、そんな世界を想像してしまう。そして、そんな世界を少しでもつくることのできる人間になれれば。


 

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