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選択の神は、湖の上


人生は選択の連続だ。
「この男性(女性)とお付き合いしてみてはいかがでしょう」
「この職場で働いてみては?」
「この集まりに参加したら楽しいかも」
「この習い事に飛び込んでみてはどう?」
「この服を今買ってみては?」
などと人生の中では、大なり小なり、新しい流れに飛び込むか否かを迫られる瞬間が多々ある。みなさんは、どうやって選んできていますか?

「うーん、ちょっと考えさせてください」
と、決断を保留にすることも可能なのだけれども。
のんびりと悩んでいる間に、その男性(女性)は「……なんだ、あまり好かれていないのかも」と弱気になって、急に疎遠になったりするかもしれない。パートナー候補も仕事も、椅子取りゲームのように虎視眈々とポジションを狙っている人たちにサッと掠め取られてしまったり。習い事や集まりも、人間関係の面倒臭さやお金の出費ばかりが心の中で大きく膨らんでしまって、なんだか億劫になってしまったり。お目当の服は、やっと買おうと決断したときにはもう完売になってしまったり……と、いうこともしばしば。
やはりチャンスには、タイミングよく飛び込まないと後悔するから難しい。

なので何かを選択するとき。
私の場合は、どれを一番大事にするかというと、それは「しっくりくる」という感覚だ。
結婚も、家を買うときも、就職も、子どもの幼稚園や自分の趣味であっても、何かを決断するときは、この感覚を第一にしてきた。
この「しっくりくる」というのは、とても静かな感情だ。ベストチョイスを引き当てたときというのは、もっと喜びに溢れて妙にハイテンションになりそうなものだが、私の場合はそうではなく。風のない明け方の、森の奥にたたずむ湖面のように、心の中はしんとしている。その選択肢の前で腕組みをして「うむ」と頷いてしまったり、「そう。これです」といってスッと手に取るといった静かな気持ち。
そういうときの選択は、我が統計上、たいていとてもうまくいっている。先人の言葉でいう「腑に落ちる」が一番近いかもしれない。

この法則を信じ切って、マンションなんてたまたま初めて観にいった1件目を、内覧した数時間後には買ってしまっていたし(私1人で決めたわけではないので、うちの旦那さんも結構バクチ打ちだと思う)。結婚も、何しろドーンとしっくりきたので、まだ未来の旦那さんとは恋愛関係にもなっていないのに「ああ、結婚するのはこの人か」と納得した次第。腑に落ちちゃったワケでございますよ。
「あそこはよかったな」という就職は、やはりスルスルと何の疑問もなく流れるように話が決まったが、反対に「最悪だった」という仕事場は、まず嫌な予感しかしなかった。働きませんかと問われた際には、「それは、ないな」と思ったのにも関わらず、なんやかんやと結局そういう所で仕事をしてしまったこと2回。結局「こういう予感がしたときは、避けるべき」というケース・スタディになったので、身をもってお勉強したわけだが。

なので、しっくりくると同時に、
「嫌なところが1つもなかった」
「引っかかるところが1つもない」
という感覚も、私は同時に探っている。
何か引っかかる、何か嫌な予感がする、譲れないところがある、気持ちがざわつく。あるいは、本当にそれでいいのかなと自問する自分がいたり、一生懸命、自分自身にメリットを言い聞かせている自分がいるときは、ハズレを引き当てることが多いように思う。
そして、その悪い予感を無視して、良い流れにしようと無理強いをすると、さらに大きなケガをする。


たとえばショッピングの場合。
私は「あ、これ。買うしかないな」とスッと手が伸びるものは、金額や大きさなどの条件に無理のない限り、買うようにしている。もちろん家に同じようなものがゴロゴロしているときは、断念するのだが。

また誤解して欲しくないのだが、第一印象にグッときても「即決」が美徳ではないということ。すべてを瞬時にフィーリングで決めればいいわけじゃない。スピードが大事なのではない。
「しっくりくる」までは、いろいろと説明を聞いたり調べたりして、心の中に引っかかるものがすべてなくなるまで、財布を開けないし、購入ボタンは押さない。それぞれの選択に「悩める制限時間」というのがあるのは承知の上だが、タイムオーバーになった案件は、ご縁がなかったと思って諦めるしかない。
そしてよくよく調べ終わったにも関わらず、「どうしよう。でも、持ってたらいつか役に立ちそうだし。ああ、どうしよう。でも欲しいんだけど、どうしよう」だの自分にブツブツと問いかけているときは、買わなくてもいいことが多い。
なので「迷ったら買うな」がマイルールだ。

迷った挙句、なんども何度も思い返してしまったり、毎日そのショッピングページをのぞいてしまうようなときも、買わなくていいことが多い。
もうなんというか「執着」になってしまっている場合があるからだ。
この執着の本当の姿は、日常の別のストレスであることが多い。その逃避による欠乏感を、無意識にその執着で満たしているのだ。経験ないだろうか。私はある。
そんなときは買ってから、「あ、それってそこまで欲しかったワケじゃないかも」と思ったりする。
(これ、パートナー探しでやってしまうと本当にややこしいことになるから、気をつけなくては……)


たとえば、表現の場。
仕事やこの「note」で、記事を書くときも同じ法則を使っている。
読み直して、心が静かになるまで、自分がしっくりきて、なんの引っ掛かりもないときになって初めてアップする決断を下す。
かすかなざわめき、小さな棘、ささくれ、なんだかしっくりしない感じ。それらがあるときは、まだアップはできないし、クライアントに納品はできない。ここを見逃すと、それはあとで大きくほつれるからだ。
もちろん誤字脱字などは、後でたくさん校正さんに赤を入れられるのだが、そうではなく。記事そのものが破綻しているかどうか、構造がおかしくないかどうか、矛盾があるかどうか、リズムは乱れていないかどうかはこうやって、静かに心の襞(ひだ)をサーチしながら推敲する。

やれやれ、仕方がないのだ。湖面が波立たなくなるまで、何度も粘るしかない。だって、私の選択の神さまは湖面にいらっしゃるわけなのだから。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️