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“星座の人”とよばれた元白虎隊士の物理学者

何故?山川健次郎は日本人初の物理学教授となりそして後進の学者たちの礎となったのか

日本人初の物理学者の一人、山川健次郎を皆様はご存知でしょうか。
歴代東京大学の総長を務めた期間が最長の御人です。歴史の授業で学ぶわけでもない物理の授業で学ぶわけでもない。知る人ぞ知る。
つまりは知らない人は全く知らない偉人です。
日本の学問特に理学系教育の基盤を作った人なのではないかと思いますが
不思議なことに我々は義務教育で彼のことを学ばず大人になる。

日本人が学問の父はといえば福沢諭吉と99%の人が答える。そう思っている。

対してかの人を知る人さえ非常に稀だったりする。

私個人的に 福澤さんのK大学閥意識の高い方々がすごく苦手だった。何だろう‥ちょっとやたら爽やかぶりっ子でお高くとまってを見下す感じの‥なんか嫌だった‥。(この夏のテーマひと味ちがう辛口)

山川健次郎は少年の頃、元会津藩白虎隊でした。明治維新後、対外的にはその出自からテロリスト(逆賊・反逆者)という汚名を終生背負う立場でした。
健次郎は元会津藩士たちのリーダーで山川浩↓(元会津藩家老で山縣有朋にやたら嫌われてた人)の弟です。

ヒロシです‥

山川浩は元会津藩の家老であり、敗残後転封先の斗南藩の大参事としてテロリスト(逆賊)と呼ばれ敗残し苦しい立場にあった会津藩士達のまとめ役であり拠り所となっていました。そんな兄の元、体力武力にはあまり恵まれなかったが、勉学面では大変優秀だった彼は紆余曲折を経てアメリカへの国費留学生となり日本人初でイェール大学で物理学の学位を取得しました。
日本人としての初の物理学教授は彼であります。

すなわち日本物理学の開祖とも言えるのではないかという人です。
物理学者として教育者として多くの後進を育てながら、多忙な中研究し、自らの研究の成果を弟子に譲ることも多かったようで、彼の弟子の弟子にあたるのがかの有名な湯川秀樹氏や朝永振一郎なわけです。

もしかすると‥
彼が物理学を専攻したからこ今日の日本があるのかもしれませんね。
ノーベル賞を受賞した博士方は健次郎がいなければ、ひょっとして存在しない可能性もあるわけさ🧬

なぜ物理学を選んだのか‥。

それは、会津の無惨なまでの敗戦の理由を“情報戦”こそが大きな敗因だったと認識したからこそ人生をかけ優秀な情報将校となり日英同盟に深く貢献した柴五郎にも共通しますが、会津戦争で苦渋を味わった少年期の影からの決死の覚悟のようなものがあったのかもしれません。
※柴五郎閣下は小生の最推しの人物ですので、いつかしっかり書きたいです。

白虎隊としてもまだ体が小さいが為、数えでは15歳でも満年齢は14歳にもならない身長120㎝程度だったのかもしれない‥。(120㎝身長ないとハワイアンズのスライダー入れないが、白虎隊の出陣できる基準がスライダーできるできないの仕分けだったら‥とふざけた妄想ifをしてしまった‥)流石に銃剣を持って出陣するには足手まといとみなされ会津戦争を鶴ヶ城場内で体験することとなった健次郎。手足が吹き飛ばされた負傷兵が次々に運び込まれる中、城内にも被弾が及び手当を担当する女性達にも砲弾が飛び、籠城していた鶴ヶ城内のあちらこちらに人の肉片が無数に飛び散る様を目撃することとなった。
実際に、彼の兄嫁もそのように砲弾をうけ若くして亡くなっています。

↑イエール大学時代

実は彼の同門である仲間達、白虎隊は17歳以下の少年部隊で飯盛山にて集団自刃をしたということで有名です。彼はのちに飯盛山に同門達の慰霊碑をたてることに拘りました。
実はこの飯盛山には、日本国内いや世界的にみても非常に珍しく、非常に奇妙な構造の建造物が戊辰戦争以前から存在する。

不思議な建造物サザエ堂

階段がなく二重螺旋構造



DNAと同様の二重螺旋構造で上りと下りが独立しており、登る人と降る人が決してすれ違うことがない。正式名称を三匝といい「三度匝(めぐ)る」ことを意味する。
堂内には3ヶ所ほど逆側のスロープを覗ける場所があるらしい。そして外観は六角堂である。
ん?3の倍数?あれれ?
ちなみに高さは16.5メートル、直径6.3メートル‥

に、ニコラ・テスラ‥?

いやいや、尺貫法だからさ、3の倍数は当たり前なんだけどね。

このお堂の考案者 郁堂和尚は夢のお告げからこのサザエ堂を建てたそうな。

このサザエ堂。二重螺旋🧬
なんだか物理学的な雰囲気ありませんか?
だって素粒子の配列って二重螺旋でしょ?
健次郎が生まれるずーと前に建てられたものだけどね。

不思議なもので健次郎は何らか縁あって物理学を大学で専攻したのではとおもってしまう。

なぜなら

生涯において会津は賊軍ではないことを証明し続けた

恐らく理学的にね。とても合理的にものをお考えになる方のようですし。

人生を賭けた証明。

撒ける種子を全てまき、教育という土壌を耕し。

真実はいつか実る‥。

歴史はいつも勝者のものとなるでも、いつか後世の人が正しく物事を判断するための揺るぎない方程式を布石を敷いていたのかもしれないのです。

そして物理学、教育を通し

日本の後進の為に道を示し続けた「星座の人💫」

山川健次郎は

どこまでも純粋で欲得に左右されず無私を貫き、社会に奉仕する合理主義者で私欲を捨て後進の国のため若者のために教育に労を惜しまなかった。

日本人でノーベル賞を受賞者の大半は「物理学賞」
その基盤、布石を敷いたのは彼なのかもしれない。もしも彼が物理学を専攻しなかったのならば違っていたのではないだろうか?

事実、彼はこのサザエ堂も建つ飯盛山に白虎隊の慰霊碑を立てることに拘った。


昨今飯盛山は観光名所とされ、また以降数十年に渡り福島県内の小中高生(子供達)は必ずと言っていいほど遠足や修学旅行でこの地を踏み入れる。
そんな場所となっている。
東京都民は東京タワーに行かないかもしれないが、学童期に福島県内で過ごしていればほぼ100%飯盛山行ってるのだ!

うああ。子供の頃に気づかなかった。

健次郎の細やかな意図を大人になった今感じさせられる。

だって街を見渡せる山の高台にネジネジ、くるくるしたものがあるんだ。
そこに、まだ学生だった少年たち人生道半ばの白虎隊慰霊碑があり‥
年頃の子供たちを呼び寄せるクルクルした習慣。

おもしれぇ‥。

子供達の好奇心『なんでだろう?どうして?』がいつしか探究心となりやがて平和な世界が螺旋のように続きますように‥。
だって生きとし生けるものすべて🧬の集合体ではないか。

呪術廻戦 五条悟が教師である理由

ちなみに健次郎の妹の捨松も、津田塾大学で有名な津田梅子と共に日本初に女子留学生としてアメリカにわたっています。知的で英語が堪能だった捨松は鹿鳴館外交で活躍しました。(捨松は幼少から20代前半留学していた為、日本語で自己表現が苦手で困ったり悩んだりする時は事は健次郎と英語での会話することだったようです)この捨松はかの有名な鹿鳴館で活躍するわけですが、当時の政財界のご婦人方の中で芸者上がりの方も多い中、留学して大学を卒業している彼女はちょっと異質な存在だったのではないかとも。実際背が高く美人なのですが。同調圧力に屈しないというか
DOUCHOU -ATSURYOKU?I can't understand ‥
って感じだったのかもしれません。
津田梅子さんが学校作る為にお金を集めたり陰ながら尽力したのも捨松ですね。

捨松さん大学のレポートで戦争体験について書いてます。めっちゃ武士顔

更にはその姉の操もまた夫と死別後にロシアに渡り帰国後は女官として宮内に入り昭憲皇太后の通訳となっていました。操さんは戊辰戦争時17歳で「なるべく切れ味の良い刀を」「自害より討死したいから懐刀よりも長刀」とかいって鎧装備しちゃう系女子。賊軍出身とはいえ女官としてかなりの重要なポジションを担ってたご様子。
山川家は女性達も社会の為に社会活動をしたいという意欲が非常に強かったのかもしれません。卑怯な振る舞いをしない(卑怯は切腹)。嘘という言葉は存在しない(嘘という行為はない)。を守り続けていたようです。嘘や卑怯な振る舞いなく男性も女性も堂々とまさに死ぬ気で後進の為に人生をかける会津武士道什の掟を貫いていたのでしょう。
戦争で身も心もボロボロになってしまった人達が昼夜沢山出入りしていた山川家だからかもしれないれど。

どうも現代は自分の生活のため。良い生活をするため。私利私欲を満たすために思考が走りがちです。
〇〇してほしい。〇〇補償すべき。どちらかといえば権利の主張が多い。

義務や義務感が気薄なことが多い。

生きがいとなる義務感をもたないことは、
未来を少しづつ切り開く達成感という快楽を捨てることでもあるかもしれない。

物質を得る快楽
美味しいものを食べる快楽は
シャボン玉のように一瞬だ
『ああやり遂げた、うまくいった』という快楽は五臓六腑に染み込みだれにも奪えない快楽なのだ。

義務感を気薄にすることはその快楽を放棄することのようなものなのかも

〇〇する為に〇〇しよう!
物理学的におかしくないか証明できるか作り出せるか
研究しよう作り上げよう!共に学ぶ仲間を沢山増やしていこう!

健次郎達のように私欲よりも後世の国のため、未来のために全集中する。命をかける武士はわが国にどれくらいいるのでしょうか。

健次郎氏は俳優の眞栄田郷敦似のイケメンだしお札の顔になってもいいのにね😏

所詮は無能な主婦の戯言に過ぎません。
でも、読んでくれて有難う💕


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