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知らんぷり。

お久しぶりです、という挨拶すらも野暮ったい。

24歳のわたしは、何のために生きていて、誰のために暮らしているのかわからないまま、当たり前のように流れていく月日をぼーっと眺めている。変わり続ける日々の渦にちゃんと吞まれていいる気もするし、ひとりだけぽつんと取り残されている気もしている。こういう文章を、わたしはnoteで3年前から書き続けている。何の意味もない。わたしが抱え続けるしかないであろう抽象的な鬱がよくなる気配はない。文章を書いたところで、悩みが解決するわけがない。誰の助けにもならない文章を、何の意味もないnoteを、今日もつらつらと書いてしまった。タイピングをしている指の動きが鬱陶しい。ただただ無駄である。わたしは、こういう”意味のないこと”を嫌いになれない。


確実に年を重ねていて、確実に経験したことの数が増えていて、確実に諦めに向かって歩みを進めているはずなのに、定期的に「どうしようもなく憂鬱な日」というものが訪れる。何も変わっていない。マシになった点といえば、その憂鬱をひとりで撫でられるようになったことだ。藻掻くから苦しくなる。ジタバタせずに、静かに墜ちていけばいい。

底でのらりくらりする日も、日々も、必要だったといえる日がくるかもしれない。もちろん、こないかもしれないし、たぶんこない。自分の人生を説明しながら言い訳を並べられるのは、その人生を乗りこなした自分だけである。それだけはわかる。言い訳を言い訳だと認識しながら発するおばあちゃんにでもなろうかな。早くおばあちゃんになりたい。



東京から離れられないのは、そこが、わたしが求めているエンタメがぎゅっと詰まった街だから。誰かの夢のようなものに触れられる街、誰かの夢のようなものに乗っかることができる街、わたしの夢は最初から存在していなかったのかもしれない。おとながぶっきらぼうに、恥ずかしがる様子もなく全力疾走していて、汗水を垂らしている。それに触れることを「面白い」と思えているうちは、ここにいてもいいのかな。

顔を合わせても「久しぶりだね」と気軽に声をかけられない程度には嫌いになってしまった人たちと、間違ってすれ違うこともない。すれ違ったとしても気づかないふりができる。ここが東京ではなく地元のゲーセンだったら、わたしは知らんぷりなんてできなかっただろう。

もう少し、上手に知らんぷりができるようになりたい。知らんぷりをしていても咎められないこの街でもう少し、孤独と仲良くなりたいだけだ。

それではまた。


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