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少しは馬鹿な方が可愛い、ですか。

「おれ、馬鹿な女の子は嫌いなんだよね」って、昔遊んでいたひとがよく言っていた。わたしは、「馬鹿なら、女の子でも男の子でも男の人でも女の人でも嫌いだ」と笑った。

(そもそも【馬鹿】と言う言葉自体わたしは全然好きではないけれど、便宜上多用します。)



人間にはそれぞれキャパシティというものがある。特定のトピックス(例えば政治とかセクシャリティについてとか、何でもいいけど。)への関心度というか、情報感受性についても同じことがいえる。それらについての知識を得るために係る労力や得た知識を保管して熟成させるためにも、それなりのキャパシティが必要なのかもしれない。「世の中には様々な性的志向を持つひとがいます」と言われてもポカンとしてしまう人は単に、努力不足なだけなのか。そもそも、その言葉を理解するためのキャパシティが足りていないから、"努力する"スタートラインにすら立てていないのだろうと思っている。己の無知故に他人ひとを傷つけることをわたしは決して許容しないけれど、知ろうとする機会に出会えなかったのは本人の責任だけではないかもしれないと思えるようになった。知らなくとも、学ぼうとしなくとも、「自分の人生」を有意義なものにできるなら、わざわざ面倒臭くて答えのないもどかしい問いに向き合わない方が良い。その方が楽だから。

”ふつう"とか”あたりまえ”という言葉で表される「常識」を、少しの違和感も抱かずにするっと吞み込めるというのは、それはそれで幸せなことかもしれない。23歳のわたしはそう思えるくらいには成長した。まあ、成長が何かはわからないけれど。



名前をつけられない関係に至った男性の言葉が忘れられない、ということはよくある話だ。その人は男女問わずよくモテるひとだった。いわゆる「イケメン」でもなければ万人に通じる「無敵な優しさ」を持っているひとでもなかったけれど、たしかな魅力があるひとだった。その人は酔っ払うとよく、コンパなど複数の男女が集まる場で”馬鹿”だけを武器にしている女の子があまり好きではないという話をした。その理由については、「馬鹿でいる方が楽だから、”楽で簡単な方”を選ぶような人とは相容れない」と説明した。(「敢えて馬鹿を演じている女の子もいるとは思うし、逆に”馬鹿”の武器を絶対に使わない決意をしている女の子もいるよね。もあちゃんみたいな」との補足もしていた。それを聞いたわたしが「楽な馬鹿恐怖症なんだよね」と訳のわからない返事をしていた頃にはもう、お互いがどうしたって惹かれあってしまう同種だと気づいてしまっていたのだろう。)
こういう男性には、素に近いわたしを見せても怖くない。わたしごとまるっと理解して欲しいとは思わないけれど、極端に的を外れた言葉で無意味に傷つけられることはないだろうと安心できるから、腕の中で安らかに眠ることができた。



結局わからなくても、学ぶことを諦めない。理解できない思想を拒絶しない。多様性という言葉を簡単に使わない。わかりやすい言葉に騙されない。短絡的な思考で断言するひとには近づかない。きれいでやわらかい言葉を選べる人と付き合いたい。相手が選ばなかった言葉を想像できる人でありたい。


いつか、キャパシティの広いおばあちゃんになりたい。


それではまた。


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