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こども、おとな。大人。

おとなになると、自分の人生に起こるすべての事象に関する責任を自分で負うことになると言われました。また、生活していかれるだけのお金を稼ぐために自分の意思を削って時間を売る必要があるとも言われました。「○○のようになりたい。」「▲▲のようなことがしたい。」と、抱いている大志を大声で言うことが恥ずかしくなり、生きることがどんどん苦しく、狭くなっていきます。何者にもなれていない──そしてそのことを自覚しているわたしのことを、何者かになれていると思い込んでいる人たちは指をさしてくすくすと笑います。みんな、周りにいる人間の生活を覗くことでしか自分の立ち位置を確かめることができないので、例えばわたしのことを自分より下の人間だと思い込もうとします。自分の方があの子よりも”成功している”、”勝ち組”、“イケている”、”充実した人生を送っている”ことを示すために、立証するために、行動を選びます。行動を選ぶための軸はそこだけにあります。SNSを駆使し、他人に羨まれる人生を必死に演じます。この人生において自分が本当にやりたかったこと/社会の中ですべきことは何だったのか、胸に手を当てて考えることはもうしばらくしていません。内省する時間があるなら、TwitterかInstagramかYouTubeを開きます。そうでもしないと、世界の中に自分だけが取り残されているような、空っぽな気持ちを感じてしまうからです。襲い掛かってくる空虚感に勝てないからです。そういえば、黒いスーツを纏って就活に勤しんでいたころの自分が言っていた「この会社でやりたかったこと」が何だったのか、もう思い出せません。あの頃、役員の前でわたしの口から出た言葉は、決して嘘ではなかったはずです。ただ、本心だったかと言われればそんなことはありませんでした。その場をやり過ごすための戯言だったのかもしれません。まだ入社して1年も経っていないのに、10年後この会社で働いている自分の影すら見ることができません。わたしは本当に、成長することを望んでいたのでしょうか。おとなになった自分のことを愛することができないまま、今日まで生きてしまいました。こどもの頃は、進むことしかありえない時間の中でこの肉体と精神とを繋ぎ合わせて息をすることがこれほどつらいことだとは思いませんでした。何者かになれなくても、何かを成し遂げていなくとも、自分自身が納得できるような日々を生きられいていると思っていました。だから殺しました。



それではまた。

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