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甘い卵焼きは嫌いですが。


昨日書いた記事の1ヶ月後くらいに書いた下書きを再編しました。


散々他人からの妬み嫉みをかってきた身としては、「あいつ(わたしのこと)最近上手くいってないんだねざまぁみろ」と思われている方が元気になる。元気になるというか、、その妬み嫉みがエネルギーになる。(できれば明るい気持ちを向けて欲しいとは思うが。)まあそこまでわたしのことを気にしてくれる優しい他者なんてそうそう居ないとは思うが、最近は身体の調子こそ悪かったものの、かなりハッピーに生きているのでお構いなく。

まず、労働環境について。相変わらず給料は良いし残業はないし上司には恵まれているし社長も役員も優しいし、快適な環境に身を置いている。先輩方にはそこそこ好かれているし、ある程度評価もされている。無論、できるなら働きたくないし、未だに労働を好きにはなれないけれど、資本主義社会で生きるためには否応なしに銭を稼がねばならない、というならば、折り合いをつけるには十分過ぎるほど恵まれた職場に属している。配属されて半年、出来ることは大幅に増えた。スキルアップしたおかげで「出来ない」ことで後ろめたさを感じることはほとんどなくなったし、スムーズに業務をこなすことができるようになった。ゲームをしているような感覚で、面白がりながら楽しく働いている。

次に、手元にある潤沢なお金について。お金の有無が選択肢の幅を大きく左右する、ということを今回の件で思い知らされた。彼との生活において、わたしたちが新卒同士とかどちらかが非正規だったらこれほど柔軟には動けていなかったと思う。生まれに関係なく、自分で選んだ人生で安定的に生まれるお金はとても尊いものである。さらに、それが泡銭ではなく誰かの「ありがとう」の対価としての賃金である、ということが(わたしにとっては)大切なことだ。お金について揉める要素が何もない、というのも、パートナーである彼と上手くお付き合いするための重要なポイントである。貧すれば鈍するは、2年前からわたしたちの合言葉だった。


娯楽について。お金が潤沢にあるということとつながるわけだが、正規で働く女は強い。あくびをしていても桁が増えていく貯金を唯一思いっきり使える娯楽の域は当然、お金をかければかけるほど豪華なものになってゆくので、良いリフレッシュになる。これからも先も、「金欠」とは無縁の人生が続いていくことを願います。努力もします。


最後に、友人たちについて。「結局最後まで残ったのは沖縄時代からぶつかりまくっていた子たちだったな」とボヤくと、友人がひとりもいないであろう彼に『だから言ったのに。』と笑われた。日常的に会う友人は1人もいないが、わたしの嫌いなところも含めて付き合ってくれる友人が少なくとも数人はいるわけだから特に問題はない。悲しい話だが、「結局友情だけはわからなかった…」と言いながら死んでゆく未来が見える。

甘い蜜だけ吸う馴れ合いは要らねぇとか言って尖ってたら、本当に(東京で友達っぽい関係を築いてくれたひとたちは)誰もいなくなった。みんな馴れ合いを求めていた、ということなのでしょうか。自分の間違いを、「たぶん違うと思うよ」と言ってもらえるほうが有難いと思っているのは本当にごく一部だけで、大多数はInstagramで公開できる「可愛い自分」を無言で撮ってくれる仲間が欲しかっただけ、ということなのでしょうか。わかりませんね、違うなら、SNSで遠回しに伝えるのではなく、"直接"教えて欲しいです。



結局、ぶつからずに上手くやり過ごすよりもぶつかったときにどう対処するかが肝だった。いい加減終わったものは仕方がないと前を向いて歩むべきなのだろうが、妬み嫉みを向けられて良い気になれるほどわたしは我が道を行く人間ではない。

0か100かでしかものを考えられないのは辛いだろうな、と思う。100を受け入れることが愛情とか友情とかなのか。だとしたらわたしは彼すらも愛せていないことになる。


たしかに、わたしはあの子に対して「甘い卵焼きが好きだなんて理解できない」とは言ったかもしれないが、(だって本当に理解できないんだもの。)「あなたの人生は間違っている」とかなんとか言って、存在ごと"否定"した覚えはまったくない。「君は否定したつもりがなくてもその他の言動を見ていれば私を馬鹿にして私の人生を否定していることくらいわかる。」と言われればそれまでだ。人間は自分が見たいものしか見ないのでもうどうしようもない。わたしはしょっぱい卵焼きが好きだけれど、甘い卵焼きが好きなひとがいたっていいだろうと思っている。甘い卵焼きが好きなことが理解できないからと言って、あなたの人生を否定したわけではない。これが通じなかった。これが通じなくて、縁が切れた。


それではまた。


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