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イランで出会った中国人建築家とイラク旅行した話🇮🇶イラク編

明けましておめでとうございます。
年内に完結できませんでした。早速2023年に戻ります。

前回までのあらすじ ↓

中国人建築家の態度にブチ切れた私。
1人でイラクに行くことを決めた。
まずは航空券のキャンセルだ。
結局出発の2日前にキャンセルした。8割は返金されるらしい。
ありがとうターキッシュエアライン。さようならアゼルバイジャン。

次に英語と日本語で集められるだけの情報をかき集めた。
治安、交通、安宿、ビザ。他国に比べて情報量は圧倒的に少ないが、この国を旅する人は玄人ばかりなので情報の質が高かった。女性旅人の情報が少ないのはいつものことなので諦めた。
最後にカウチサーフィンでイラク滞在予定日を登録する。
するとイラク国境沿いの街バスラに住むホストからオファーがあった。
泊まれるだけでも有難いが、ホストの休日であれば国境まで迎えにきてくれると言う。この時テヘランからイラン国境沿いの街アバダンまでバスチケットを取っていたが、ホストの休日に合わせて到着を1日早めることにした。
準備は整った。

建築家とは連絡は取っていたが、どこにいるのかいつ国境を越えるのかも分からなかった。もはやコイツと一緒に国境を越える必要はない。
2日後には国境越えすると伝えた。すると彼も国境沿いの街アバダンに居て私と同日に越えると言う。なんなんだコイツ。

準備万端とは思ってもやはりイラクに行くのは怖かった。
10月2日、1人テヘランからアバダン行きの夜行バスに乗った。15時間の旅である。
結局彼とは上手くコミュニケーションが取れなかった。イラクに着いても1人かもしれない。そう思うと急に不安になってきた。
7ヶ月も旅していると大抵のことはなんとかしてきたし、なんとかなると思っていた。普段は不安になることなんて滅多にないのに、この時ばかりは心細く感じてバスの中で1人、泣きそうになっていた。
その時男性2人に話しかけられた。イラク出身だと言う。
日本人の1人旅であること、イラクには観光で行くことを話すととても喜んだ。「イラクは安全な国だから安心して」と何度も言ってくれた。
彼らとの会話を聞いていた車内のイラン人たちも、この変わった日本人バックパッカーに話しかけてくれたりお菓子を分け与えたりしてくれた。人の温かさに触れ、先ほどまでの不安な気持ちが和らぐとともに、別の意味でまた泣きそうになった。


アバダンに着くと先ほどのイラク人男性2人が国境までタクシーに乗せてくれた。一緒に国境を越えてくれるとも言う。なんてラッキーなんだろう。
ボーダーに到着。毎度のことながらやはり国境は独特の雰囲気がある。女性の旅行者など1人も見ない。殺伐としていた。
イラン出国は無事完了。ビザに出国スタンプを押され、パスポートには何も押されなかった。
イラク入国にはアライバルビザが必要となる。イラク人男性らが職員に事情を説明してくれた。ここで彼らと連絡先を交換し、お別れした。
1人アライバルビザ申請用の別室に連れていかれる。別室ではパスポートを見せるだけで、本来自分で記入するであろう書類も全て職員が作成してくれた。イスラム圏あるあるだが婚姻状況を申告する欄があり、シングルの確認が取られた。そして職員から「僕もシングルだよ」と言われる謎イベントも発生した。
事前に75$+陸路入国税の支払いと聞いていたが、細かい現金が無かった私は70$払ってアライバルビザが発行された。イラク、緩すぎる。
その後迎えにきてくれたホストと無事合流し、バスラ市内に向かった。手持ちのドルが枯渇していたのでATMにてイラクディナールを入手、ホストにSIMも手配してもらった。
圧倒的姫待遇。普段の国境越えより簡単にイラク国内に入ってしまった。


携帯を見ると彼から連絡が入っていた。
特に約束もしていないのに、国境で2時間私を待っていたらしい。アホか。
私が国境を越えた時には誰1人旅行者に会わなかった。つまり私たちは同じ日に別々のタイミングで入国したらしい。
その日は彼もバスラに宿泊していたので、翌日この街のバスターミナルで合流することにした。

翌日昼過ぎ、1週間ぶりに彼に再会した。
この1週間、彼の言動にムカついて、不安になって、私の平穏だった感情は振り回されまくり、こんな奴会いたくないとさえ思っていたのに、バスターミナルで彼を見た瞬間、嬉しくなった。
シーラーズで別れて以来の再会に、少し緊張していた私は、開口一番
「あなたと別れたおかげでマシュハド超楽しかったよ。」と言ってしまった。
可愛くない。がこれがイランでふざけ合っていたいつもの私である。
彼も少しキレ気味に
「じゃあマシュハドで何があったか教えてもらおうか。」と言って、会ってすぐに以前と同じ空気感に戻れた。

このバスターミナルからシェアタクシーに乗り、私達はバスラより少し北の小さな村、チバイシに向かった。
チバイシはマルシェと呼ばれる湿地帯で有名な場所。バスで出会ったイラク人男性2人にもカウチサーフィンのホストにもオススメされた場所である。現地の人にオススメされた場所に行くのが大好きな私、入国前は存在も知らなかったが、急遽行くことを決めた。
チバイシは本当に田舎の湿地帯だった。この日は私たち以外、イラク人観光客さえ誰もいなかった。湿地帯の前には数人のボート漕ぎ。
値段交渉して早速ボートに乗った。
時刻は午後4時半。日没まで40分。小さなボートに2人乗り込み、沼地をゆっくり巡った。
湿地帯なので水深は浅い。自分の背よりも高い水草が茂っていて、ボートはその中を掻き分けるようにゆっくり進んだ。10月のイラクは夏の終わりみたいな気温だった。ボートに乗りながら受ける風は優しくて、気持ち良かった。風で水草が揺れる。水牛が水草を食べる。この村には30人ほどが住んでいて、10歳くらいの子供達が水浴びをしていた。ボートの辿った軌跡が浅い水に浮かんでは消えていく。背の高い草の隙間から、沈む夕陽が時々見えた。オレンジ色が水面に反射して、キラキラした水が眩しかった。
こんなに綺麗な景色を独り占めしている。世界に私達だけしかいないように感じた。
幸せで贅沢な40分だった。
チバイシは、イラクで1番好きな場所になった。

日没後、この村に泊まることにした。
ここにはメソポタミア時代から続く伝統的な葦で作られた家があり、交渉すれば泊まることができる。ボートを手配してくれたお爺ちゃんの家にホームステイすることとなった。
ボートを降りると、村の子供達が駆け寄ってきた。イラクでは外国人観光客自体が珍しい。私達のようなアジア人は彼らからすれば興味の的だろう。遊んで遊んでと私達の後をついて回る。そこには差別も偏見も無く、元気いっぱいに伸び伸びと暮らす子供達の無邪気さがあった。
お爺ちゃんの家に戻ると奥さんが夕飯の準備をしていた。家に手作りの窯があり、小麦粉で作られたナン生地を手で成形していた。私も参加する。手で生地を回しながら成形するのはかなり難しく、苦戦していると彼と家族に笑われた。
イラクに来たということを忘れてしまうほど、平和で幸せな空間だった。
本当にここはイラクだろうかと何度も思った。

夜、月を見ながら煙草を吸った。彼はイランで調達したらしい別の煙草(察してください)を吸っていた。ゆっくり流れる時間を過ごしていると急に抱きしめられた。

「また会ってくれてありがとう。君が来たいと言わなければ、今日僕はここに来てなかった」

びっくりした。
いつもストレートにものを言うように見えて、感情は全く表に出さない彼。
こういうものがなければ素直になれない人間なのか。彼にも弱さがあるのだと思うと、急に愛おしく感じた。
初めてキスした。変な感じだった。
翌朝起きると隣で横たわっている彼の携帯の画面が見えた。昨日撮った私の写真を見ている。
朝から恥ずかしくなった。私が寝ている時に見ているところがやっぱり素直じゃないと思った。


さらに北の都市ナスリエに向かった。
ここにはウルのジグラットと呼ばれる世界遺産で世界最古の聖塔(当時の神を祀るために建てられた塔)がある。彼はそこに行きたがった。
ナスリエにはイラク国境でお世話になったイラク人男性らが住んでいた。2人はバスターミナルまで私達を迎えにきてくれ、ウルまで連れていってくれた。
生ジグラットに歴史オタクの建築家は興奮しっぱなし。2人に再会できたことが嬉しかったし、私の繋がった縁が彼の役に立ったことも嬉しかった。その後2人の友達も合流しみんなで一緒にお昼ご飯を食べた。
彼らはここに泊まっていきなよと言ったが、彼は「これ以上ここに長居するのはあまり良くない」と言った。ナスリエは他の都市に比べ異様に道路上のチェックポイントが多かった。警察からいつ私達がこの街を出るのか、イラク人男性に何度も電話がきていたらしい。
彼はこういう危機察知能力が私より高い。一緒に居て心強いと思う瞬間だった。

本当に素敵なイラク人に出会えたと感謝するとともに、私達はさらに北の都市ナジャフに向かった。
ナジャフはイスラムシーア派の人々にとっての聖地である。ここには4代カリフで初代イマーム、アリーの霊廟があり、世界各地から巡礼者が集まる。私はここに来るためにイラクに来たのである。
イラクにはホステルはなく、ホテルしか存在しない。基本的に安宿探しは苦戦するが、中国人の情報網は凄い。彼らは独自のSNSを持ち旅行者同士で情報交換するグループを作る。ナジャフのホテル情報は一発で手に入り、無事この日の宿泊先が見つかった。2人で部屋代を折半し同じ部屋に泊まった。
イラク旅行中は、情報が手に入りにくい国こそ中国人と旅して良かったと何度も思った。
聖地では外出する際、黒に身を包まなければならない。毎度アバヤとヒジャブを着けるのは面倒だったが、彼は「黒は君によく似合う」と言ってくれた。ナジャフの人は優しくて、街を少し歩くだけでパンやお菓子などお店の商品を無料でくれた。彼は私のことを歩く野生動物だと揶揄ったが「黒が似合うからだ。イスラム圏には住んじゃダメ」と嫉妬していた。

ここまでハイペースで移動していたため、ナジャフではゆっくり過ごした。しかし彼はこの街の雰囲気が気に入らなかったらしい。
そもそも彼はイスラム教が嫌いだった。アフガニスタンで見た、全身を隙間なく覆う女性の不自由な格好に衝撃を受けたらしい。
私は女性の格好は各々が信仰心に従って自由に決めればいいと思っている。格好で信仰の深さを決めつけられることはない。
モスクや霊廟に行っても「気分が悪い」とばかり言われるので彼の発言でこちらも気分が悪くなってきた。


ナジャフの次はイラクで一番有名な世界遺産バビロンに行った。案の定興奮して長居する彼。歴史にそこまで興味のない私は、日が落ちる前にもう一つの聖地カルバラに行くつもりだった。しかしここで彼は行きたくないと言う。
1人でカルバラに向かうことにした。またお別れだ。
バスターミナルに向かうため2人でタクシーを捕まえた。タクシーの中で「一緒にカルバラに行こうか?」と聞かれた。
ナジャフでの彼の発言を聞いてると、無理して一緒に行動してもこちらが気遣わなければいけなくなると思った。
「あなたに無理強いさせたくない」と突き返した。ここで「一緒に来て」と言える女だったら何か変わっていただろうか。
そうして私はカルバラに、彼は首都バグダッドに向かった。

別れてからも連絡は取っていた。
バグダッドで既に2泊していた彼に「明日バグダッドに着くからダブルルーム空いてる?」と聞くと
「2人来るの?」と聞かれた。
これまで同じ部屋に泊まっていたのに、今回は同じ部屋に泊まるつもりはないらしい。シングルもダブルも値段に差がないからと言う。なんなんだコイツ。
「私が生理だから一緒の部屋に泊まりたくないの?やっぱりクソ建築家だなお前」と言ってブチ切れた私。カウチサーフィンでオファーを貰ったホストの家に泊まることにした。
しかしこのホストが合わず、1泊したところで結局彼に連絡した。
翌日彼と合流すると「同じホテルに泊まろう」と言ってホストの家から荷物を運ぶのを手伝ってくれた。しかしこの日彼の泊まるホテルに空き部屋がなかった。彼の部屋に泊まろうとすると、婚姻証明書が無いと泊められないとスタッフに止められた。まさにイスラム圏である。
結局彼のホテルの2軒隣のホテルに1人で泊まることとなった。
バグダッドはイラクでも酒が買えることで有名である。バグダッドで乾杯しようと約束していた私達だが、同じ部屋でなければ酒は買えても一緒に飲むことはできない。ムカつく男(建築家)とムカつく1日(婚姻証明書)を忘れるように1人ヤケ酒した。
久しぶりのアルコールにかなり酔っ払ってしまった私は、彼に怒りのメッセージを送り、ホテルのベッドで寝落ちしてしまったらしい。
翌朝目覚めると腕が痒い。何やら赤いプツプツとした跡もある。痒さはどんどん増し、跡もどんどん大きくなった。異常な痒さになってようやく気づいた。もしやこれは、南京虫。
バグダッドで婚姻証明書を求められ、酔っ払った挙句南京虫に当たる。なんて経験だ。散々なバグダッド。早くここから脱出しなければと思った。


バグダッドを脱出し向かった先は旋状ミナレットで有名なサーマッラ。
サーマッラに行くまでは良かったがここから次の都市モスルに行くのが大変だった。モスルまでは直行タクシーが無く、ティクリットと呼ばれる小都市に寄らなければならなかった。
サーマッラで軍人に車を呼んでもらい、ティクリットに着いた。時刻は午後4時。この時間にシェアタクシーに乗る客は私達以外誰もいない。希望する値段は受け入れてもらえず、何もないタクシー乗り場で2人夕陽が落ちるのを見守った。何時間待ったか忘れてしまったが、2人で過ごす何もしない時間は嫌いじゃなかった。
痺れを切らしたドライバーがようやく折れてエンジンをかけた。いつもは景色を撮りたくて必ず助手席に座る彼だが、この日は2人で後部座席に座った。
車が走り始めると不意に手を繋がれた。前の座席には途中から乗り込んできた地元の男性と運転手。一応ここはイスラム圏なのでバレないように平静を装った。3時間ほどの道のりだったが、2人で手を繋ぎながら窓から夜景を見た。大した景色ではなかったのに今も記憶に残っている。


モスルでは世界遺産のハトラに行ったり、川魚の丸焼き"マスグーフ"を食べたりした。
彼はどうしてもマスグーフが食べたいとうるさかった。イラク旅行中、チグリス川はいつも見ていたがその魚を食べたいと思ったことはなかった。日本人なので海水魚はいつも食べているし、お世辞にも綺麗とは言えないチグリス川の魚をなぜ食べたいのか?理解できなかった。

「中国だって焼魚は珍しくないでしょう?なんで味期待できないのにわざわざここで食べたいの?」と聞くと
「味は問題ではない。この魚には祖先がいて、辿れば古代のチグリス川の魚を食べていることになる。歴史を感じるためだ」と答えた。

やはりこいつは変わっている。
こんなに面白い思想なら一緒に魚食べてもいいかと思えた。
ちなみに魚を食べている時は「これが古代の王も食べた味!」と興奮していて笑いが止まらなかった。

モスルは7年前、イスラム過激派組織ISISの拠点となっていた。ISISは街のモスクやハトラなどの古代遺跡を爆破したり、イラク政府と抗争したりしていた。2人で街を歩いたが、7年経っても多くの場所は当時のままのダメージが残されていた。その頃、イスラエルとパレスチナの戦争が始まったばかりで、ガザもこの状態になってしまうんだと思うと、急に目の前の光景に辛くなってしまった。立ち尽くす私を見ていた彼が「君にはハグが必要だと思う」と言って瓦礫の中で抱きしめてくれた。たぶん一生忘れないと思う。


イスラエルとパレスチナの戦争は私達がモスル滞在中に勃発した。
イラクの後は近隣国を経由して陸路でイスラエルに行く予定だった私。彼もシリアに行きたがっていたが計画変更を余儀なくされた。彼と一緒ならレバノンにも行きたいと思っていたのに。
「君が行こうとする国は全部戦争が起こるね」と言う彼。
全くもってその通り。運命は非情である。
2人で毎朝ニュースをチェックした。安全そうなのはヨルダンかエジプトだけだった。
ヨルダンには既に行っている私。エジプト行きの航空券を取った。と同時にこれが彼との最後だと思った。

最後の都市エルビルに到着した。
ここはクルド人の住むクルディスタンエリア。イラクとは思えないほど近代的なビルが立ち並び、発展した都市だった。何より軍人の数が圧倒的に少なく治安が良い。
ここではイラクに来て初めて日本人に会った。トルコからバイクで南下して来たと言う。何やら面白そうな男性だったのでランチに誘ってみた。なぜか建築家もついてきた。彼は昔インドのラダックをバイク旅していたらしく、日本語も喋れない癖にこの男性とバイクの話で盛り上がっていた。
ランチの後3人で街を散策した。この日本人男性も彼のことを「この人見る視点が独特で面白いね」と言っていた。
この頃になると自分が変なのか彼が変なのかわからなくなっていた。やっぱり彼は変だと第三者に言ってもらって安心した。

イラク最後の日、手持ちの現金が尽きた。
彼の支払いを立て替えていたからである。イラクはATMが使用できるがドルを両替したほうが圧倒的にレートが良い。いわゆる闇レートというやつだ。エルビルはイラク諸都市に比べてレートが良いにも関わらず、彼は手持ちのドルが少ないと言い全く両替しようとしなかった。
エルビルに来てから3日間、彼の分まで立て替えていたが遂に自分の現金も尽きた。
このままでは空港に向かうタクシー代も無い。
流石に返せと彼に問い詰めた。すると彼は逆ギレ。
「僕が金を返さない人間だと思ってるの?!」
アホらしくなり1人ホテルを出て頭を冷やすことにした。すると彼が追いかけてきて、なぜかそこでお金を返してくれた。
遅すぎる。早く返せ。

その後2人で中華料理屋に行った。
この中国人は定期的に中華料理を食べないと死ぬ病気に罹っている。普段は奢るなど全くしない人間だが、中華を食べる時はなぜか奢ってくれる。彼なりの気遣いなのか、この日も中国で食べるより圧倒的に高いエルビルの中華料理を奢ってくれた。
夕方街のシーシャに行った。「これでイランもイラクもコンプリートしたね」と言う彼。こういう感覚は私には無いので正直かわいい。
思い返せば別れる最後の日、私達は毎回シーシャデートしている。まさに中東旅。

そして荷物を纏めてホテルを出る時
急に「行かないで」と言われた。
びっくりした。
なぜ今言うんだろう?ずっと一緒に居て航空券取るところも見ているはずなのに。

「ここに残ってどうするの?」
「一緒にヨルダンに行こう」

いや無理だ。私は既にヨルダンに行っている。イラクからわざわざ陸路でヨルダンに行く理由が私には無い。

「ずっと現金返さなかったのも、空港までのタクシー代が足りなくなればエジプトに行けなくなると思っていた」

は???今言う???
この後存分に思い知るがこの人は本当にその場で感情を出さないし、かなり時間が経ってからあの時こう思っていたと言う。いつも時既に遅しだが。

彼の不器用さを愛しいとは思いつつ、このままずっと一緒にいるのは難しいと感じていた。私達はお互い自由で、縛り合ったりするのは嫌いだ。
彼は自分で決めたことを変えないし、自分の気持ちを表現しない。私は常に彼の意思決定に振り回されていると感じていた。彼を好きだったからこそ疲れてしまった。
そしてこの曖昧な関係は期間限定だから楽しめるのであり、これ以上引き伸ばすと自分の気持ちに影響があることも分かっていた。
もう子供じゃないのだ。自分の中で区切りをつけるためにも1人旅に戻りたかった。航空券を取った時点で、この1ヶ月を綺麗な思い出にすると決めたのだ。この決断は誰にも変えられない。

「ヨルダンが終わればエジプトのダハブに行く。そこでまた会おう」

そう言われたけど、本当に会うか分からなかった。その時私はまた彼に会いたいと思うんだろうか。未来の気持ちは考えたって分からない。

「考えておくね」
とだけ言って1人空港に向かった。


こうして中国人だけど中国人ぽくない建築家とのイランイラク旅が終わった。誰かとこんなに長く旅をしたのは初めてで、彼も初めてだと言った。
お互いの足りない部分を補うように旅できて、毎日が楽しかった。2人で旅した1ヶ月は刺激的で一生忘れられない思い出になった。
国籍も性別も抜きにして、人間としてこんなに魅力的な人に出会えたこと、一緒に時間を過ごせたこと、それが一番嬉しかった。
少し泣きそうになりながらエジプト行きの飛行機に乗った。


そしてこの後エジプトダハブで再会し失恋するのですが、この話はまた気が向いたら。

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