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ペットロスに罹りました 2

昨年の4月にも同じような記事を書いた記憶があります。あの時は引きずりましたね。あの記事を書いた後も長く。
その傷が癒えた頃の12月25日、新たな子を迎えたことはまだここには書いてませんでしたね。
たまたま縁あって、地域の保護猫団体が長野県の多頭飼育崩壊現場から救出して、一時預かりされてた推定3歳のメスの子を里子に迎えました。

推定3歳と言えばすでに成猫なんですが、体が小さく、甲高い声で鳴くさまは、子猫さながらでした。「ビビリで猫カースト最下位」との触れ込みでしたが、少しずつ我が家に馴染んでいく過程は、それは楽しく優しい時間でした。初めてスリスリしてくれたとき、初めて腹見せごろんちょしたとき、おなかがすいてごはんを求めてにゃーにゃー鳴いて催促したとき、すべてが記憶の宝物です。

その子を、12月1日に亡くしました。1年も一緒にいられませんでした。
今まで、飼った猫は10年以上生きました。今いるオスは18歳です。
でも、まだ若い子です。これからまだまだ猫盛りです。素直で可愛くて明るくて、絵に描いたようないい子でした。もっともっと愛情を注いで、もっともっとたくさんの思い出と深い絆を築いていくつもりでした。

この子の子猫成分の一つに、「よちよち歩き」がありました。
お迎えした当初は普通に猫らしく飛び上がったり立ち上がったりできてたんですが、2月、最初の健診の血液検査で、重度の腎不全と高ナトリウム血症が発覚し、退院した時には重い運動機能障害を起こしていました。
猫独特の鋭い平衡感覚は失われ、歩き方もたどたどしくなっていましたが、心は強い子で、食欲も旺盛、不自由な体でもできる範囲で、精力的に動いている姿は実に健気でした。夏には体重も2kgを越え、コロコロした丸みを帯びて、目をキラキラさせてそれは生き生きとしてきました。

先住オス18歳(右)と

この子の健康維持に必須だったのが、毎日の補液注射でした。2kg足らずの体に注射針を通して120㎖のラクトリンゲル液を皮下注入するのは、飼主として精神的にも辛い作業でした。何度も失敗しては針を刺し直したり、猫の負担を考慮して途中で諦めたり。でも、1ヵ月も経たないうちに要領をつかむことができました。
頭の切替の上手な子で、補液注射が終わったら、ご褒美のちゅ~るを嬉しそうに食べて、また可愛い声で私たちに甘えてました。

ずっと猫を飼っていて、必要なものは揃っていて、この子のために何か買い与えたものがなかったので、紫色のマカロンベッドを買ってあげたら、その日に嬉しそうに中に潜って寝てました。
先住の18歳オスも、このマカロンには一切手を触れませんでした。

最後の最後までトイレの躾ができず、わざわざトイレのすぐ手前の床面にやらかしていました。我が家ではその場所のことを、「第一垂れ場」「第二垂れ場」と呼んでいました。毛布に吸水シートを巻いて「仮設トイレ」を作ってました。

気候が寒くなり始めた頃、食欲が途端に落ち、下痢をしやすくなりました。
動物病院からはいろいろな薬を処方され、対処療法に明け暮れていました。それでもまた、どんどん痩せていき、毎日補液をしても脱水に追いついていかなくなりました。
この子の今までの回復力と若さに望みをかけて、動物病院で「医療がやれる限りの治療」をするため、入院を決意しました。
が、4日後見たこの子の姿に、生気はほとんど感じられませんでした。声は出せず、ちょっと視線を動かして反応はしてくれましたが、以前のように立ち上がる気配すらありませんでした。

「おうちに、帰ろう」

そう呼びかけ、主治医から経鼻での給餌方法を教わり、痛々しい姿で帰宅した時には、いろいろ覚悟をしました。せめて、25日の誕生日までは、命をつないで。。。

その日の夜、家人が帰宅してしばらくして、その時はやってきました。
待っていたんでしょうね。そして安心して、旅立ったんだと思います。


帰らせてあげられてよかった。
最後に安心させてあげられてよかった。

その言葉は、もしかしたら人間に都合のいい、自己満足にすらならない言い訳なのかも知れません。
思えば、積極的な治療を施す度に、この子の症状は顕著に表れていました。
治療とQOLの選択を間違えたのかも知れません。悔いは、あります。


前回と同様、私はしばらく軽度の鬱状態に陥りましたが、数日程度で立ち直りました。なぜでしょうね?
2年連続で亡くしているので、慣れてしまったんでしょうか?
前回ペットロス正義論を唱えた私にとって、それは絶対にあってはならないことです。
それでも、「忘れない」ことだけは心に銘じて、なにかにつけ、この子をどう具体的に愛したか、いつでも、いつまでも記憶に列挙していきたいと思います。

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