28.自分を失った日

プロローグから続いています。



この子を私のようにさせてはいけない。
この子を私のようにさせてはいけない。
この子を私のようにさせてはいけない。


やがて呪文は呪と化する。

娘は私から離れなければならない。
私と居ると不幸になる。
どうにかして私から離さなければならない。
藁をも掴む想いで、区の保健センターに電話した。
母子手帳に書いてあった相談窓口を思い出したのだ。

私と一緒にいる娘を助けて欲しい!

そんな想いで電話先の保健師さんに、
泣きながら一方的に話をした。
そして、それを皮切りに保健師さんが家を訪問するようになった。


私の様子や娘の発育様子を
逐一チェックしていたのだろう。

どうか助けてください。
私と一緒にいると、この子は不幸になってしまう!
私が母親になれるわけが無かったんです。
どうにかこの子だけは私のようにさせないために…

担当保健師が来るたびに、私はそんな風に訴えていた。
話しを聞いてもらった日だけはどうにか自我を取り戻せたが、
また翌日になると訳も無く目覚めた瞬間から
涙が流れて止まらない。
自分の望みも自分がどうすれば良いのかも、
もはや分からなくなっていた。

起きていても苦しく寝ていても苦しい。
私は誰に言われたわけでもなく、
自ら精神科に向かった。

いくつ者種類の薬が処方され、
うつだという診断が下った。
この頃からパニック発作も再開し、
うつとパニックで
自分がどうなっているのか分からない日々がはじまった。



そんな様子をひと月くらい見ていた保健師さんの勧めで
娘を保育園へ預けることにした。
もう何がどうなっても良かった。
保育園に預けることが良いのか悪いのか、
この子が助かる云々…
何も分からなくなっていた。

ただ自分で善し悪しを判断できないで居たが、
保育園に預けられれば娘は毎日ちゃんとしたご飯が食べられる。
そんなことを思い浮かべた記憶だけある。


娘が2歳を迎える歳、
保育園へ通わせることが決まった。
毎朝自転車で送り届け、
昼間は薬を飲んで家で過ごす。
そして夕方になると、
また保育園へ迎えに行き夜を迎える。
病院の医師も保健師も口をそろえて私に
「休息」が必要だと言っていた。
でもそんな言葉や周囲の想いとは裏腹に、
この生活が私の罪悪感を刺激することとなったのだ。


保育園と言えば働くお母さんたちが
子どもを預けて仕事をする施設。
そう思い込んでいた私は
仕事も何もせずにほとんど寝ながらすごしていた。
メイクして働いている人を演じながら
元気を装い保育園へ向かってはいたが、
娘を預け家に戻ると
一人何かに取り残されたような気持ちに拍車が掛かる。
昼間一人で自分を責め、
泣きながら過ごすことが増えていった。

自分に対する不甲斐なさや情けなさに
何をどうして良いのかが分からなかった。
私は働きもしないのに保育園に預けてる。
そんな風に、他のお母さんたちへの申し訳なさまで募っていく。

何の役にも立たないのに、
食費や医療費まで掛かってしまう自分。
生きているだけでみんなのお荷物な自分。
家事も育児もろくに出来ず
妻として母としてのみならず
当に人間として価値すらなくない。
こうして来る日も来る日も自分を責めては、
惨めで悔しく泣いて過ごした。


苦しすぎて頓服を一つ。
また苦しすぎて頓服を一つ。
一つ一つと薬を多く飲むようになる。
終いには自分が何錠薬を飲んでいるのかさえ
分からなくなっていった。
どれだけ薬を飲んでいても
自分の張り裂けそうな心を抑えることができないでいた。

生きているのか死んでいるのか。
感情や感覚も麻痺をしていく。
夫や娘が話しをしていても
どこか遠くの方で聞こえてる。
そしてまた泣き喚き、
こんな私でごめんなさいと懺悔する日々。


ある日、娘を送り届けた後、
気がついたら家ではないところに私は居た。
どこに行こうとしたのだろうか。
何をしたのだろうか。


私は自分が怖くなり病院に電話を入れた。
今○○に居ます。
そんなに言葉を交わした覚えはないが
すぐに病院に来るよう言われた記憶が残ってる。

とにかく気をつけて来なさい。
そこからタクシーでもいいから来なさい。
私はどうやら呂律も回らず、
フラフラした状態が電話の向こうの医師に伝わったようだった。

大丈夫です。
自転車で行けますから。
そう答えた記憶はあるが、
今もどうやって病院に向かったのかすら思い出せない。


病院へ到着しすぐに診察室に案内された。
医師が何かを話してた。
家族に連絡して欲しいと言われた。


そして、精神科の閉鎖病棟へ緊急入院することになった。



つづく

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