環境としてのパートナーシップ (そして、言うなれば「ウェルビーイング」なるものについて)
魂のこもった言葉を紡がずにいると、薄ペラで悲しみすらも宿せなくなるなあ……と。生きることの意味を想う夏の日の(といっても、立秋を少し過ぎた)夕暮れ。
入院して、好きなものを食べることも制限されることは、何の治療なのだろうか。何の癒しなのだろうか。関係性の中で生きる人のいのちの、その主体性は、どのようにして生き続けることができるのだろうか。意思疎通なるものがか細くみえるような状態となった時において。
自問。そしてまた自問。
扉を開く「問い」を求めて。
(「問う価値のある問いを共有したい。
そういうことなのだ、私の関心のあることというのは)
かつて書いたこの文章を、ここに記しておく。
「環境としてのパートナーシップ」 (2012.12.2のBlog)