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夏目漱石「門」(1910)/悟れないと知ることが悟ることの第一歩

今の会社に入って前職以上に感じるのが自分のいたらなさ。英語力はもちろん、ロジカルに持論を展開する能力だったり、ちょっと足りてない、役不足だと感じることがある。
思えば文章を書く行為についても、最近は「自分の文章のここがよくない」ということを最近は明確に自覚している。考えの掘り下げが甘かったり、語彙が不足していたり、「型」を未だに確立できていなかったり。そもそも文章を通じて何かを伝えたいなら、もっと伝え方を工夫しなくてはいけない。そんな思いを持ちながら本を読むと、読めば読むほど自分のいたらなさを感じる。

最近だと夏目漱石を作品を何個か読んで、あまりの文章のうまさに圧倒された。ただその中の「門」という小説の有名な一節と、その小説を最後まで読んで、思ったことがある。

けれども、どうせ通れない門なら、
わざわざそこまで辿たどりつくのが矛盾であった。
彼は後ろを顧みた。
そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有(も)たなかった。
彼は前を眺めた。
前には堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。
彼は門を通る人ではなかった。
また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、
日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
夏目漱石「門」

この一節は、親友から妻を奪い、実家や知人を避けて暮らしていた主人公があわやその親友と鉢合わせしそうになり、そんな心の負担に耐えかねて禅寺に行ったものの、悟ることができずに絶望した時のことを綴ったと解釈されることが多い。

ただ、最後まで読んで、そして改めてまた読み返すと、この気持ちこそが「悟り」の第一歩のように感じた。自分が門を通れない=悟れないと自覚することが、悟るためのファーストステップ。
いっけん矛盾しているけれど、ギリシャの哲学者も「無知の知」という格言を残している。

自分のここがいたらない、ということの粒度があがると、じゃあ何をすればいいか、が、明確になる。それは仕事にしても文章にしても。あとはそれを埋めておけばいい。

いたらないのにいたらないことに合点がいき、心が落ち着くこの状況、自分の心境ながら興味深い、そう思う。


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