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回転木馬のデッド・ヒート

自分の人生で、こんなに村上春樹さんの作品を読む日が来るとは…!

大好きな先輩に教えてもらって、この夏、足繫く通っている読書会。

やっぱり、一人で読んでも「うーーーん…(よく分からない)」ってなるけど。

皆さんの話は、何時間でも聞いていたくなるから不思議です。

今回は『回転木馬のデッド・ヒート』を📖

とにかく「はじめに」の文章が大好きすぎて、繰り返し読み直しました。

(本編の作品たちは、一人だと「?」となったけど)

今回は、「はじめに」について書くので、ネタバレが心配な方も安心してお読みください。


「聞く」の代償

とにかく、この例え話の文章が大好き。

私が、繰り返し読み返した理由の一つです。

カーソン・マッカラーズの小説の中に物静かな唖の青年が登場する。
彼は誰が何を話しても親切に耳を傾け、あるときは同情し、あるときはともに喜ぶ。
人々は引き寄せられるように彼の周りに集まり、様々な告白や打ち明け話をする。
しかし最後に青年は自らの命を絶つ。
そして人々は自分たちがあらゆるものを彼に押し付け、誰一人として彼の気持ちを汲んでやらなかったことに思い当たるのだ。
・・・・・
”おり”というものは体の中に確実にたまっていくものなのである。
僕が言いたいのはそういうことだ。

回転木馬のデッド・ヒート

ここでの”おり”は、恐らく「澱(おり)」のことです。

吐き出されず、体の中に溜まっていく沈殿物みたいなもの。

村上さんが翻訳しているカーソン・マッカラーズの小説『心は孤独な狩人』のエピソードなのだそうです💡

”我々はどこにも行けない”無力感

”おり”という例えがピッタリ過ぎて、思わず鳥肌が立ちました。

なぜかというと、思わず頭に浮かんだ人たちがいたから。

他人の話を聞けば聞くほど、そして、その話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。
”おり”とはその無力感のことである。
”我々はどこにも行けない”というのがこの無力感の本質だ。
我々は我々自身をはめ込むことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。

回転木馬のデッド・ヒート

さらに、ここからが本当に大好きな文章で。

それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。
それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。
どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。
誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。
しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。

回転木馬のデッド・ヒート

「回転木馬のデッド・ヒート」なんて、どうやったら、こんな秀逸な表現ができるんだろう。

きっと、誰にでも身に覚えがあることで。

だからこそ、余計にこの文章は重みがあると実感しました。

大好き過ぎて、繰り返し読んでも、全く飽きない。

自分が、心から大好きな文章なのだと思いました。

回転木馬を降りるのか、回り続けるのか

同書は短編集で、回転木馬を降りる人もいれば、回り続ける人もいて。

現実の自分は、これからどうしたいのか?

強く考えさせられました。

もし自分がもっと年を重ねた時、この文章を読み返したらどんなことを思うのか?

これからも読み返し、その度に自問自答していきたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました🍀

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