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「わかりあえなさ」を埋めるために、自分の偏りを認める
今朝ご紹介する本は、宇田川 元一さん『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』です📖
職場での「わかりあえなさ」から始まるさまざまな問題。
この問題の解決のカギとなるのが、本書で触れられている「対話」です💡
対話とは、「論破する」「忖度する」といったことでなくて、相手の「ナラティヴ」に入り込み、新しい関係性を構築することだと宇田川さん。
今日は「ナラティヴ」をテーマにご紹介します📝
ナラティヴを生きている=誰もが偏った存在
ナラティヴとは、立場や専門性によって生まれる「解釈の枠組み」のことだと言います💡
意訳すると、さまざまな経験をする中で生まれた、自分の考え方のことのようなものでしょうか。
「誰もがナラティヴを生きているという意味で偏った存在であり、それは自分もそうだということ」
つい、「他人の偏り」に目が行きがちですが、まずは「自分の偏り」に気付くことが大切なのかもしれません。
自分の惨めなことを知っている時点で偉大
自らの偏りを認めなければ、他者の偏りを受け入れるのは難しいでしょう。
他者の偏りとは、ナラティヴの隔たりのことです。
・・・・
そして、それを受け入れることは、時に自分が惨めだなと感じるかもしれません。
しかし、哲学者のブレーズ・パスカルはこんな風に述べているそうです。
人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている時点で偉大である。樹木は自分の偉大さを知らない。
自らの偏りを認め、対話を実践していくことは、惨めさも受け入れながら、何かを生み出そうとするという大変偉大なことなのです。
「わかりあえなさ」って本当に厄介で、自分から諦めることは簡単です。
だけど、まずは自分の偏りを認めて自分が変わろうとすること、相手に歩みよろうと努力すること。
このことが、「わかりあえなさ」を埋める対話において大切なことなのかもしれないですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございます🍀
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