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“優しさ”は人格から来てなさそうだ

体調も復活し、積雪した街並みが美しかったので、少し歩いてお買い物に出かけた今日。澄んだ空気の中を歩くのは気持ちが良い。

澄んだ空気のおかげなのか、良い買い物ができたおかげか、それ以外の理由かは分からないが、デパートや駅、道端で困っていた人を見かけた時に、なんだかスッと手を差し伸べることができた。ツルツル滑る道路に神経をとがらせているからか、ちょっとした声かけでホッとすることがあったり。

元々私は、特別親切な人間ではないが、不親切な訳でもない。
久しぶりにゆっくり一人で歩きながら
「この2~3年で私、前より優しい人間になっているかもしれない」と。なんと勘違いな閃き!があって。

勘違いであることはすぐに気づいた。

子どもが生まれてから、妊娠以後、周囲に親切にされる機会が増えていた。優しい方が多いのだなと肌身で感じる機会があって。優しくされることが増、自分も同様にしようと変化した。返報性の原理、そのままですね。


それ以上に、心身ともに余裕がある。
どれだけ会社員時代は疲れていたのだろうか。疲労困憊。人に手を差し伸べる、譲ることをしていたとて、それは“人として正しいか”や、“社会的にいいことか”みたいな基準を自分に負い、義務的にやっていたのだろう。
同じ行動をしても、今だと“純粋にどうぞ”という気持ちだが、昔は違ったわけだ。

時間、心、体、お金の余裕。
2つくらい持ち合わせていれば、他人にまで優しくなれる。

人格が優しくなったわけではなかった。

単に余裕という“余白”が生み出してくれてるんだろう。





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