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書評#2「夢を与える」綿矢りさ

 小説が面白いのはどうしてなんだろう。

 マキさんが思うにそれは小説が、過去に経験したはずなのに自分で整理できていなかったこと、何故なのかその時分では誰にも説明できなかったけれどそれでも確かに嫌だったりムカついたりしたこと、直視するのがなんとなく面倒くさくて半ば故意に見過ごしてきたあらゆる諸事情の総集編だからである。
 そんな人生の数々の迷シーンにおける、今さら思い出したくもなかった諸々の情緒を、わざわざ掘り起こして言語化し、「ああ……、前にあったねそういうこと」と目にモノ見せてくれる、それが小説の仕事じゃないだろうか。だから人によっては小説の所業が完全に余計なお世話だったりもするのだろう。

 いや本当、この際死ぬまで判然とせず、二度と思い返すこともなく、モヤっとしてくれていた方が良かったことのほうが多い。生きていればいる程そう思わないか?私はそうだ。
 いつかのあの出来事とは、記憶が形をとる前に本能的に封印したあの不安や哀しみの正体とは、いったいなんだったのか。間違いなく忘れていたほうがヘルシーだ。
 それを、賢い人々が定義し直しご丁寧にも執筆してくださりやがったことで、負わずに済んだはずの傷ができてしまうことだってある。
小説を読むとはそういうおそろしい体験なのだ。

 「ほぅら、あのとき免除してやった傷を、今つけてやるよ」と、生っちろい二の腕の内側に焼きゴテで印を押される。じゅっ、と鳴って産毛が焦げる匂いがする。
 顔をそむけていたいのに、痛がる自分の腕を凝視するのをやめられない。
心理描写にすぐれた小説を読むのは、そんな嗜虐性を持っているから、私はときどき気をつける。

 ましてやこの綿矢りさという作家がどうにも、腕の傷の縦横の正確なサイズを測り、深さによって違う肉の色を子細に描きとり、病的に発色の良いピンクをパレットに愉しそうに捻じり出すタイプのサディスティックな作家なのだ。彼女の作品を読むたびに「あー怖い、あー怖い、人間って小説家って本当に怖い」と吐きそうになる。

 それでも小説を開く。
 怖い思いをするとわかっていて、私はページをめくってしまうし、もはや次のページを躊躇うことが最も、生きている実感に近いとすら思う。
 数えきれないほどの人間でできた黒い渦を、腐乱した水が臭くても、得体の知れない菌にまみれても私は、やっぱり泳ぎたいと思ってしまうんだ。

さて、本日ご紹介するのはそんな綿矢りさ大先生の「夢を与える」(2007年 河出書房新社)。

 主人公は、食品メーカーのCMでブレイクした清楚系タレントの夕子。
 ドラマに出て、話題の映画に抜擢されて、それでいて高校を出てきちんと大学受験もする。
 夕子は今で言うと、ちょうど広瀬すずみたいな、溌溂と清潔とを目印にして売れてきた美少女タレント。その夕子が業深い人間たちの渦に巻き込まれ、業界人たちの排出する「臭い水」の中に転落していくさまを描いた、書名とはうらはらに、残酷きわまりない小説。それが「夢を与える」である。

 ね、読みたいでしょう。ただしメンタル的に調子の良い時に。

 デビュー作「インストール」や芥川賞の「蹴りたい背中」の、ちょっと薄荷が強いけれど清涼な、サイダー水のような文体は本作ではアッサリと姿を消し、温度と明度を思いっきり下げたこの世界観に、一読してまず驚かされる。
 と同時に、読む者は覚悟を決めねばならない。ああこれは心をヤられる……と。綿矢りさ作品初の三人称文体は、過去作の印象を完璧に裏切る、呪詛のようですらある。

 ぬるくて生臭くてどろり濁った地下水のような語り口は終始不安なうねりを見せながら、綿矢作品史上最悪の読後感で胃の一番気持ち悪いところに流れ落ちてくれる。

 「19歳の美少女作家綿矢りさチャン」が早熟な少女時代を終えて、……そうか……こんなに怖い大人になっちまったんだ……そうかァ……。と、ファンのオジサンたちが泣きたくなってしまう、そんな作品です。

リサちゃん…リサちゃん…
学校へ行っても女子グループになじめなくて、休み時間はずっと机のノートに背中を丸めて、オリジナルキャラ創作に没頭していたオタクのリサちゃん。孤独に耐えかねて、ついに稚拙な情熱で自分の青春を力まかせにぶっこわし、屋上で途方に暮れていた、そんな可愛いリサちゃんはもう居ない。

 彼女のロリな見た目と、微炭酸入りビタミン系のエロティシズムに、「夢を与えられ」てハァハァしていた男性ファンたちよ聞け。
 今こそ相当な利子を付けて、その夢とやらをお返しするときが来たのだよ。

 ドラマの方は、かなり設定がアレンジされていて、原作を読んだ人はションボリするかもしれない。でも、芸能界の厭らしさや、人物のエゴイズムがかなり強調されている分、恐怖や嫌悪感、救われなさも、これでもかってほどわかりやすくなっているから、わからずやの君に推薦したい。
 小松菜奈ちゃんの三白眼に睨まれたい人にもお勧め。
 夏帆ちゃん演じる、芽の出なかった不幸なアイドル役も良い。全く夢を与えないところが。

*冒頭写真提供:常闇のフォトグラファーYM いつもありがとう
*大人の事情で、#人生を変えた一冊 というタグが付いておりますが、別に人生変わったとかはありません。私は前から綿矢先生の作品が好きで、性格は薄暗く、小説は私にとってこういうもので、なお人生にはいろいろなことがあり、一冊の本を読んだだけで大きく変わるとかそんな甘めえことはないんじゃないかと私は思います。かしこ



 

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