見出し画像

【夢のはなし。】 白い襖

明け方、猫に起こされた。
酷暑のあとの怠さに、半開きの窓からはいる風がひんやりと心地よい。
猫に手の甲をなめられ、横たわったままそっと抱きとると、しなやかな身体をぴったり沿わせてきた。
そのまままた、私はすうっとやわらかな眠りに落ちていった。

夢の中で、私は見知らぬ街をひとりで旅していた。
街歩きを終えて夜に旅館に戻り、ちいさな和室に敷かれた布団で眠りについた。
と、気づくと私は夜の街を歩いていた。
眠っていたはずなのに、とぼんやり思いながら暗い街を歩いていくと、Kさんに会った。
古い知り合いのKさんは、すこしも驚かずに私に「こんばんは」とあいさつをした。
私はKさんに何かたずねようとしたが、そのとたん、突然地面にばったりと倒れてしまった。
身体にすこしも力が入らない。Kさんは心配そうに「だいじょうぶですか」とたずねている。
Kさんに助けてもらって、私はなんとか旅館にたどりついた。和室の布団に横になると、Kさんは帰るでもなく、部屋の隅でそっと座ってじっとしている。
わたしは眠ろうと目を閉じた。すると、和室の入り口の白い襖の向こうから声が聞こえてきた。
襖の向こうは廊下になっている。ふたりの人間が話しながら廊下を歩いていた。
それは父と姉の声だった。まだ若々しい父の声と、十代らしい幼さの残る姉の声。
ふたりは何かについて気楽な調子で話し合っていた。父のほがらかな、ちょっといたずらっ子のような笑いをふくんだ声が言った。
「そらそんなことはやな、本人に聞くのがいちばんええやろ」
はずむような姉の声が答えた。
「ほな聞いてみよか」
はっと私は目をあけた。白い襖がほんの少し、開いたままになっていたのに気づいた。
私は息をつめ、飛んでいって襖をぴったりと閉めた。
閉めた襖の向こうで、話しながら廊下を遠ざかっていく父と姉の声が少しずつちいさくなっていく。母はどこにいるのだろう。
そうだ、こんなふうに私たち家族は生きていた、話していた、憎んだり、笑ったり、怒ったり、黙ったり、泣いたりしながら、それでもこんなふうに。
白い襖をあけて、廊下に走り出て、ふたりに会いたかった。
でもけっして、そうしてはいけないことはわかっていた。
和室の中に眼をうつすと、Kさんはなにごともなかったように静かに座っている。
「今、廊下を父と姉が歩いていきました」
と、私はKさんに言った。
「そうですか」
少し驚いたようにKさんは言い、それからかすかにほほえんで、うつむいた。

眼がさめた。
時計を見ると、猫と眠りに落ちてから、三十分ほどしかたっていなかった。
窓からの風がさやさやと部屋をわたり、すこし汗ばんだ額にふれた。
あの廊下を歩いていって、父と姉はどこかで母と合流して、いまも私を探しているかもしれない。
私はずっと、白い襖のこちらがわにいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?