思い出はすべて頑張った自分のかけら
お正月に3日かけて、半年あまりも放置していた書斎を片付けた。書籍をあるべき場所におさめ、書類を分類して処分する。ただそれだけの話なのだが、やっと床が見えた。そもそも、夏に引っ越しをした際に700冊以上の本を電子化し、1000冊ほど処分し、おおかたの書類を整理した。それにもかかわらず、箱という箱から、棚という棚からモリモリと紙の束があふれてくる。よく熟成された書類になると、もう前の前の前の住所で前の前の姓だったりする。おのれの怠惰を恥じるばかりなのだが、手に取れば書類の向こうに必死で仕事に取り組んでいた自分や、難しい本をなんとか噛み砕こうと頑張っていた自分がふっと浮かび上がってくる。必要で手元に残すものも、今ではもう不要になってしまったものも、そのどれもが、人並みに幸せになりたい、知らないことをわかりたいともがき続けてきた、自分のかけらなのだった。
「自分は何も頑張ってこなかった」とおっしゃる人によく出会う。私もそう感じてしまうことは少なくない。何もしてこなかった、何も残せなかった。でも、私も含めて誰もがきっとわかっているのだろうと思うのだけど、どんなときも自分は自分なりに生きることを頑張ってきたのだ。すごいと言われなくても、報われた実感がなくても、頑張ってきた事実は変わらない。それを日々、小さなことのなかにコツコツと見つける努力をしていくと、人生というのはいくばくかしのぎやすくなるように思う。
色あせた封筒や、角がすりきれた文庫本や、かつての恋人と観た映画の3Dメガネ。どの時代の自分も愚かで迷いやすく、どうしようもなかったように思えるけれど、でも頑張っていたよねえ。そもそも、そうしたものを手に入れたり体験したりしたことは、地道にコツコツとお金を稼いで人間関係を構築していたからできたことであって、私はたしかに頑張っていたのだ。自己肯定感を高めるカギというのは、きっと特別な精神の鍛錬だけではなくて、こうやって鷹揚に、過去を肯定してやることにあるのだろうと思う。
もう整理がついた思い出をばさばさと処分しながら、自分に語りかける。よくやってきたね。ありがとうね。そんな1年の始まりは、きらきらはしていないけれど優しく穏やかな光に満ちているのだった。とらわれることなく、くさることなく、過去のどの自分も栄養にして、生きていくのだ。
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