ヒハマタノボリクリカエス 2

 ここは心療内科の待合室。ここは病院。ここは精神科の病院。ここに私は一人で来た。ここが私の最後の希望。
 薬を服用しても胸の痛みが消えず、医者に訴えるとここを紹介された。
「ヤマイハキカラって言うけれど、もしかしたら心も関係しているかもしれないね。近くで良いところがあるから紹介するよ。ああ、そんなに構えなくていいから。今の時代、普通に生きていたらストレスなんて溜まるばかりじゃない。そうでしょ?思わない?私はそう思うなあ。大丈夫、心療内科っていう名前だけど、患者さんは普通の人ばかりだし、軽い気持ちで行ってみなさい、ねえ」
 その医者の言葉通り、待合室にいる人は、普通の人ばかりだった。正直、驚いた。精神科の待合室なんて、偏見かもしれないけど、変わった人ばかりだと思っていた。少し変わった座り方をしている人もいるけど、ここが歯科医院の待合室だと言われても納得できるくらいいたって普通だ。その座って待っている姿からは、付き添いの人か患者かの見分けはつかない。
 待つこと三十分。やっと診察室に通された。
 茶色で統一された廊下を抜けて診察室に入ると、椅子に座っていた男と目が合った。
「どうも。こんにちは。さあ、そこに座ってくれないかな。歓迎するよ」
 私はとりあえず、机を隔てて空いている椅子に座った。座り心地は悪くはない。いつもの癖で、座ると部屋と男を観察した。とても診察室とは思えない、私の病院のイメージからかけ離れた部屋。どこかの儲かっている企業の社長室みたい。本棚には難しそうな分厚い本が並んでいる。そして男は白衣なんて着ていない。ジーンズに白いシャツという姿が、黒髪と整えられた顎鬚と合わさり、なぜか親しみを覚えた。
「ここで医師をしている、ハギクボケンジです。よろしく」
 男はにっこりとほほ笑んだ。三十代か四十代だろうか。そんなオヤジには興味などないけど、悪い印象ではない。
「よろしくお願いします。あの、あの、助けてください」
 意外にも、スンナリと言うべき言葉が出せた。ここに来る前に、何度も頭の中で復唱した言葉。
「大丈夫。きっと君を助けます。約束する。紹介状は拝見させてもらいました。辛かったよね。さあ、君のことを教えてくれないか」
 私は、心臓が痛んで怖いこと、内科で処方されている薬が効かないことをまず訴えた。加えて、心臓の痛みがこういう場所とどう関係しているかわからないことも正直に打ち明けた。
 医者は、うんうんと、カルテに何かメモをとりながら私の話を聞いている。
 私はとにかく喋った。体の不調が不安で、性格が変化している気がするというのも包み隠さず話した。
「辛かったね。そうか。うん。じゃあ、具体的にどういう時に心臓が痛むのかな?」
「どういう時・・・それは内科の先生にも言いましたけど、初めは授業中とか、友達と遊んでいるときに苦しくなりました。今はその苦しくなる頻度が増えてきています。これって病気が進行しているってことですか?不安で、・・・。どうして私はこんな病気になってしまったのですか?内科で色々検査をしても。結局原因はわからずじまいですし」
「そうか・・その初めに痛んだ時は。楽しい時間だった?それとも楽しくない時間だったかな?」
「今思えば、楽しくはなかったと思います」
「オッケー。うん、わかった。来週またここに来られるかな」
「来週ですか?は、はい、来られますが」
「今日はお薬を出しておくから、まずは毎日飲んでください」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって精神科の薬ですよね」
「畠山さん、何も怖がることはないよ。今日処方するのは、すごく少量だ。それに処方するこの薬は、アメリカでは胃薬として広まっていたりもするし」
「胃薬、ですか。胃は悪くはないですけど」
「胃の粘膜を保護する作用のほかに、心が落ち着く効果もある。確かにこの薬は、日本では精神科で処方されるものかもしれない。しかし海を隔てたアメリカでは胃薬として使われている。だからそんなに強い薬ではないよ。あ、けど今の畠山さんにはすごく効果のある薬だと僕は思います。一ヵ月飲んでみて効果が現れなかったら中止しよう。それでどうだい」
「は、はい」
「今日、まず待合室にいたと思うけど、心療内科の印象はどうですか。待合室にいた人って普通の人ばかりでしょう」
「はい。それは正直驚きました」
「主婦、サラリーマン、畠山さんと同じ学生、年金で暮らしていらっしゃる方。今の時代ってストレスが多すぎると僕は思っている。そう思わないかい。勉強、家事、仕事、人間関係。数年前よりどれも悪化していると思う。僕はここに来る人の方がずっとマトモだと思っています」
「そうですか」
「うーん、やっぱり抵抗あるね」
「ありまくります。当然だと思います」
「よし、畠山さん。あなたが風邪をひきました。あなたはすぐに治さないといけない。何故なら明後日は待ちに待った好きなアーティストのライブです。しかも幸運にも、最前列のチケットがあります。さあ、あなたは風邪薬を飲みますか」
「風邪ひいていたら、ライブなんてなくても飲みますよ。しんどいのは嫌だし」
「そうですよね。畠山さん、あなたは胃が痛みます、ここに特効薬があります。あなたは呑みますか」
「飲みます」
「畠山さん、あなたは心臓が痛みます。ここのそれに効く薬があります。どうして拒絶するのでしょうか。薬とは、正常ではない状態を、もとに戻す補助的なものです。風邪をひいたら薬を飲み、胃が痛いと胃薬を飲む。心の傷が原因で不整脈がおきている可能性があるのですが、薬を飲みませんか。なあに、ずっとじゃないです。よくなれば、薬なんて飲まなくても大丈夫になります。それに、薬と相性がよければ痛みは消えます」
 もう、私が拒絶する理由はなかった。来週の予約をとり、私は待合室に戻った。
 そこで、私は彼に出会ってしまった。
 待合室の窓際に座っていた。
 肩まである長いストレートの黒髪。
 細い眉に、冷たい青い目。
 外国人?日本人?カラコンだろうか。誰が見てもかっこいいと思う、整った顔立ち。
 全身黒服。
 けど似合っている。嫌味じゃない。
 ホストだろうか。
 足を組んでいる。
 そして、彼と目と目が合った。
 本能が彼に強く惹かれた。
 どれくらい視線が絡まっていたのだろう、彼はすっと立ち上がると、私とすれ違って診察室に消えた。
 心臓の高鳴りが止まらない。これは不整脈のせいではない。じゃあ何だろう。わからない。わからないからこそ、よけい混乱した。
 私は受付で診察代を払うと、振り返らず、すぐに病院をあとにする。
 お金は未成年の場合だと補助が出るみたいで、少額で済んだ。ラッキー。
 近くの薬局で薬を受け取り、建物の外に出た。
 空は来る前と同じだったけれど、少しはきれいだなと思えた。薬をもらう時、薬剤師に特別な目で見られるか心配したけど、そう構える必要はなかった。一日に飲む薬の量を言われただけで、あっさりしていた。
 これで私も精神科の患者か。
 この先私はどうなってしまうのだろう。
 この時の私は、不安で押しつぶされそうだった。

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