見出し画像

【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第4回)

 店が忙しくても暇でも、政弘と道江は夜十時を過ぎれば店を閉めて二階に上がって夫婦団欒を過ごす。時々、政弘は客と飲みに出たりもした。それでも忙しかった晩は気分が乗るのか、政弘は道江を抱くのを好んだ。
 朝、政弘は市場へ出るか、昼近くまで寝ているかしている。道江は日課にしている散歩に出る。
 朝の川風は気持ちがいい。道江は土手の道を歩いていた。ふと遥か彼方に霞のかかる山波を仰いで深呼吸をした。すると、その吐く息に昨夜の残り香が感じられた。それはわれ知らずに政弘の太い腕をつかんだ時の自分を恥じた瞬間だった。
「馬鹿みたい」
 道江は上気した気分を晴らすように足もとの小石を蹴った。小石が音もなく土手に落ちて見えなくなったところで一息つくと再び歩き始めた。
 道江の足は橋を渡ってアイちゃんの家に向かっていた。店で様子が気になった翌朝は必ず立ち寄ることにしていた。殊に近頃のアイちゃんはおとなしくなったようだし、視線が定まっていないように見えて心配だった。もしかしたら少しボケてきたのかもしれないと思うこともあった。

 その朝、道江は橋を渡り切ると対岸の土手の道をいつになく急いて歩いていた。
 アイちゃんの家は、土手の内側のすぐ短い石段を降りた木立の中にうずくまるようにあった。家は古い洋風の木造平屋で、白いペンキが所々剥げ落ちそうになっている。樹木に覆われ、そこだけが小さな密林のようで、蜘蛛の巣の糸が朝の日差しで銀線のように輝いて見えた。
 道江は、表札のない玄関の扉の前に立った。訳ありなアイちゃんのこと、道江はドアを開けて中に入ることはしなかった。それは政弘の忠告があったからだった。
「彼女は旦那の遺産をたくさん家の中に仕舞い込んだままだって噂だ。だから彼女を訪ねても敷居は跨いじゃならねぇんだ。何かあったら泥棒に間違えられるとも限らねぇ。お前、時々行ってるようだが決して中に入っちゃぁならねぇぞ、いいな」
 くどいように言われた。威張ると江戸弁になる癖は自分も同じだが、普段は寡黙なダンナの言うことだ、生意気言っても聞いてやるのが女房の努めだろう、そう道江は思っている。だから、その朝も玄関の前から出窓のある庭の方へ忍び足で進んでガラス窓から部屋の中を覗いた
 いつもだと化粧台の鏡の端にベッドに横たわったアイちゃんの後頭部が見えた。しかしその朝は白い枕しかなかった。奥を覗くと、ベッドの上はきちんと厚い毛布が折り畳まれていた。
 心配になった道江は玄関の方に戻って扉の隙間からアイちゃんの名を二、三度呼んでみた。しかし、政弘の忠告が気になってそれ以上に声を大きく出したり奥深く気配を伺ったりすることはよした。しばし心を震わせながら立ち尽くしていたが、道江は後ずさるようにしてその場を離れた。

 土手の上に戻って来ると子供の声がした。
「おはようございます」
 登校中の少年三人連れが一斉に帽子を取って元気な声を合わせ、道江に朝の挨拶をした。道江はびっくりして振り返り、声もなく頭を下げた。
 背を伸ばすと、もう少年たちは目の前の先をランドセルを揺らしながら走り出していた。闊達な彼らに救われたような気がした。道江は帰路を急いだ。
 店に戻ると、政弘が調理台に立って市場で仕入れてきたものを整理していた。道江も黙ってそれを手伝う。そうしてひと段落したところで二階の奥の夫婦の部屋に入り朝食となる。それが終わって、二人はようやく話をするか、それぞれが必要なことを始める。
 その朝の茶話の時、道江がアイちゃんの家であったことを伝えた。
「騒ぎ立てないことだ。お前は口が軽いからな。しばらくは店でも喋るんじゃないぞ、いいな」
 どうしてこうも夫はアイちゃんのこととなると私を責め立てるのだろう。道江は心配を分かち合いたかっただけだし、自分だって店で話そうなんて気はなかったのに。少なからず政弘にはアイちゃんが芸者の出だったことを好ましく思っていない節が感じられた。
 それは店を始めて半年ほどたったある晩のことだ。芸者をやめたばかりの着物姿のアイちゃんが初めて居酒屋月ノ川に来た時、彼女はいかにも渡世風といった中年男性と一緒に現れた。ことの発端は政弘がその男性の注文を間違えたことにあった。
「塩だって言ったはずだぞ」
 カウンターにアイちゃんと並んで腰掛けていた男が、焼き鳥の炭消しに取り掛かった政弘の背中に向かってど突いた。焼き場のガラス窓に映る外のネオンが一瞬まばたいたかのようだった。
 振り向いた政弘はじっと耐えながら身を震わせていた。咄嗟に道江が政弘に歩み寄って揃って頭を下げた。その屈辱を政弘は忘れていなかったのだ。
 しばらくしてのこと、男はどこかで傷害事件を起こし逮捕された後、組替えされたかしてどこかへ消えた。それはもともとアイちゃんが芸者時代から身請けを乞われていたある公権に近い人物のおかげだったというもっぱらの噂であった。事実、アイちゃんはその後、それらしき人物と暮らしていた。
 しかし、アイちゃんの幸せは長くは続かなかった。程なくして、かの旦那は病いで亡くなった。

 その後、アイちゃんは長らく一人暮らしであった。一人になったアイちゃんが居酒屋月ノ川に再び現れたのは、それから何年か過ぎた頃の暑い夏のことで、ちょうどその日は街の夏祭りの宵であった。
 アイちゃんは水色地に薄い花柄のある浴衣姿であった。客の誰もがその清楚な艶やかさに息を呑む思いに駆られた。
「どうしたのよ、アンタってば」
 道江が、心ここにあらずといった面持ちの政弘を見て叱るようにささやいた。その拍子に、政弘は冷蔵庫に寄りかかっていた後ろ手を滑らせて小さくこけた。体勢を持ち直しながら不似合いな照れた顔を道江に返すと、そんな夫婦の気配を察したカウンターの客達が揃って苦笑した。たちまち店内の緊張が解かれた。
「どうぞ、こちらへ」
 そう言って客の一人が空いていた引戸に近いカウンターの止まり木へアイちゃんを誘った。彼は彼女の席から二つ空いた先で固まるように腰掛けている四人の男達の席の方へそそくさと戻った。
「おーっ、おまえ気がきくじゃねぇか」
 客の一人が皮肉と羨望のこもった声で迎えた。皆、戻った彼をはしゃぐように讃えた。
「ありがとうございます」
 アイちゃんが男達の席に向かって歌うような優しい声で言った。そしてゆっくりとしなるような身のこなしで譲られた席に腰掛けた。
 その様子に見とれた男達が全員そろって席を立ち、カウンター越しにそれぞれがバラバラな言葉で一斉に挨拶した。
「どういたしまして」「とんでもないです」「いやー、どうもどうも」「よろしくお願いします」「ごゆっくりして行って下さい」
 そんな彼らの大袈裟な対応に、アイちゃんは静かな笑みを返した。男達からは熱いため息がもれた。
 そんなふうに歓迎されたアイちゃんではあったが、中にはアイちゃんを酒代をおごらせるタカリのように陰口を言う客もいた。もちろん道江は黙っていない。一喝した。
「お勘定いらないから、とっととお帰り。二度とうちの敷居はまたがらせないからね!」
 驚いた客は決まって毒気を呑まされたかように退散した。そんなことのあったことは、アイちゃんは知らない。
 やがて、アイちゃんと道江はどちらかともなくよく話をするようになった。店に来るたびに少しずつアイちゃんのことが分かるにつれ、道江はアイちゃんを愛おしく思うようになった。
 その夜も、政弘は早くから客に誘われ外へ出ていた。

 客が引けたその夜、お互いについて先に話し始めたのは道江よりアイちゃんだった。
 アイちゃんは都会生まれで、二十代の頃は貧しい家庭を支えるために夜の店で働いていたという。ひとしきり当時のお店でのことを話してから小さな告白をし始めた。
「そこでね、今のこの土地の人に見染められたの。俺の田舎で働かないかと……」
 それが何を意味していたかは隠すように、アイちゃんは恥ずかしげに語尾をすぼめた。
 かの御仁は土地のいわば旦那衆であった。行きつけの料亭にアイちゃんを連れて歩き、アイちゃんを座敷の姐さんたちに紹介した。
 しかし、当時はもう花街は往年の華やいだ賑わいは失われつつあった。料理屋、待合茶屋、芸者置屋の三業と呼ばれた花街の形態も崩れ、芸者の数も極端に少なくなっていた。そんな中、アイちゃんは貴重な芸者のなり手の一人として迎えられた。
「十九では周りの芸者さんに比べて習い事を始めるのが遅かったのよ。それでお客さんの前ではいろんな嫌な思いをしたけど、仲間の皆さんがとても優しくしてくれた」
 アイちゃんは声を詰まらせ、少し涙ぐんだ。
 道江はこの花街に古くからいる同業の人たちから聞いて知っている。アイちゃんは新参者ではあったが、持ち前の美貌と器量の良さで人気の芸者だったことを。
「誰が見たって、ちょっとした所作にも匂い立つような魅力があったってみんな言ってたわよ。アイちゃんはみんなの希望だったんだ」
 道江は店の中をどことなく見上げながら称賛の声を上げた。アイちゃんが照れたように言った。
「ありがとう」
 その言葉には深い感謝の念がこもっていた。二人は見つめ合い、どちらからともなく吹き出すように笑い合った。笑い合いながら、道江はアイちゃんのかつてのいい人の亡くなったことまで聞くのは止そうと決めた。
 とにもかくにも、アイちゃんはやがてその人の資産の一部を得て後の人生を気ままに生きることができた。そこには苦労した分だけ、安堵できる余生があった。
 アイちゃんと道江の二人はしばし酒を注ぎ合い、閑散とした店内の空気に身をまかした。そこには、お互いの気配を感じ合うだけで安らぎがあった。

 やがて沈黙を開くように、道江も正弘とのことで一つだけ告白した。
「私たち幼馴染みだけど、実はあの人以外に私を好きになってくれた人がいたのよ。それで少し迷ったりもしたんだけど、結局ね…」
 道江が言い淀んでいると、
「あの人のものになっちゃった」
 と、アイちゃんが道江を代弁した。そんなアイちゃんのおどけたような言葉に、道江も弾けるように同調して笑った。
 夜のふける気配が二人の哀しい生涯を透かすように流れていた。沈んだ話に耐えられなくなって、ときおり二人は冗談を言い合い古い苦い想いを凌いだ。
 そんな二人だけの晩が幾日かあった。やがて、アイちゃんは懐かしい旧花街にある唯一旦那を偲ぶことができる居酒屋月ノ川に通うことを生きがいにするようになった。
 しかし、花売り娘の花を店の客たちに配って店が華やいだあの晩を最後に、アイちゃんは姿を見せなくなった。アイちゃんの老いた気配には、深い霞がかかり始めようとしていた。
(つづく・全11回)

この記事が参加している募集

ほろ酔い文学

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?