見出し画像

【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第6回)

 揃い踏みの常連客が店を満たしていた。
「それで、アイちゃんの様子はどうなのさ」
「変わらないわ、あの時のまま」
「あれ以上ボケが進んでないってことかい」
「まぁ…」
「まぁじゃ分からないよ」
 客たちが道江に詰め寄った。道江は観念して、
「もうお店には来られないと思う。あっちもだいぶ進んだし、泣いてばかりいた」
 と、それだけをやっと言った。
 一つため息をついてから、道江は目の前に並んだ小松菜の小鉢に順に削り節を散らした。それを政弘が盆に載せて、小上がりの方の客へ運んだ。
 カウンターの常連客たちはすっかり落胆してしまい黙り込んでいた。アイちゃんはもうこの店にはやって来ない。例のタロちゃんは半ベソをかいている。元警察官と商店主は肩を取り合って慰め合っている。理事長と事務長はそれぞれに枡酒に目を落としたきりだ。印刷屋は天井を仰いでいる。
 店の中は小上がりの方からサラリーマンたちの陽気な話し声が聞こえているだけで、まるで天と地が一緒に同居しているかのようになった。
 かと思うとしばらくして、小上がりの方までが神妙な話題になったらしく囁き声だけになった。もちろん上司の悪口か女子社員の噂話に違いなかった。聞き耳を立てるほどでもないとばかりに、政弘は顔をしかめて呆れている。そんな時、道江は反対に店の雰囲気が萎れてはいけないと振る舞う。客の目の前の肴に一切れ足して回るのだった。
 気をよくした商店主が叫ぶように言った。
「今年も花見しようぜ。ね、女将」
 商店主は、女房とまだ嫁の来ない息子に店を任せっきりで遊ぶことしか考えていないようだが、外では気を効かすことは忘れていないようだ。だいぶ禿げ上がった頭を平手でパシンと叩いてみせた。
 女将の道江は「ご自由に」と、小さく微笑んで応えた。
「そうだそうだ、花見だ。夜の花見ってのもいいんじゃないの」
 こちらは元警察官。女のことしか頭にないスケベー親父だが、挨拶だけは大袈裟な元官憲である。
 偶然にもそこへ夜の花見の女神が現れた。スナックアイリスのママだ。
 突然の登場に驚いて元警察官が立ち上がって片手を上げ最敬礼した。すると、素早くママも年甲斐もなく拙い敬礼の真似をして反応した。二人のおどけ様にカウンターの仲間たちが見つめ合ったりカウンターに顔を沈めたり、クスクスと薄笑いした。
「あーらっ事務長、またここにいるのぉ」
 変わり身の早いママが目ざとく見つけた。事務長はカウンターの下に隠れる大袈裟な素振りをしてはにかんだ。
「事務長、スーパーで会っても、あんなふうに私を呼ばないでよぉ」
 ママがいきなりそう叫んだ。事務長はほんとにカウンターに隠れてしまった。
 その事の成り行きは、こうだ。
 
 平日のある日、ママは店に出る前にお通しの仕込みのためにスーパーマーケットに立ち寄った。紺青のワンピースの上に薄いピンク色のハーフジャケットを羽織っていた。当然他の買い物客の女性たちとは違って、彼女は誰が見ても水商売の女性らしく美しかった。
 野菜売り場のコーナーでのこと、ママが大きなブロッコリーを一つ手にした時だ。彼女は背後に人の気配を感じた。
「ママーっ」
 肩先で男の低い呼び声がしたのだ。甘えるような響きがして顔を見るより先に店の客と分かった。緊張して思わず身を離した。
 客の男は急に気まずそうに苦笑いをして小さく頭を下げた。
「こんな所でママだなんて呼ばないでよ。相変わらず気が効かないのね」
 小声で少し高飛車に言ってやった。
「近く店に行くからさ…」
 男は手の平を胸の前に立てて謝る振りをしながら頼りなげな声を漏らした。
「お待ちしてます」
 今度はわざとらしく、少し周りにも聞こえるように声高に言ってやった。
 男は周りの気配を伺いながら何もなかったかのようにその場を立ち去って行った。
 ママは息を止めてその行き先を見つめた。
 男は娘と見紛うほどの若い女性と一緒だった。その二人の間に五歳くらいのかわいい男の子がまとわりついていた。
 と、その子が初めての発見に驚いたようなかわいい声を上げた。
「ママ、いまパパがよその綺麗な女の人をママって呼んでたよ」
 男の子はこちらを振り向いて天使のような笑みを送ってくれた。あまりにも可愛いので、こちらからも小さく手を振り笑みを返した。
 近くに居合わせた女性客たちから羨望の眼差しが降り注がれた。アイリスのママは嬉しくなって周囲にも笑みを振りまいた。
 しかし、そんなスーパーマーケットのできごとのあった日から、男つまり事務長はほんとにご無沙汰が続いてしまったのだった。
 カウンターの陰に隠れていた事務長が身を起こして謝るように言った。
「ここ済んだらすぐ行くよ、必ず」
 誘われるハメになる隣の理事長は困惑した表情だ。
「お二人揃って、どうぞ」
 スナックアイリスのママは、それからすぐにいつものように道江から醤油入れの小瓶を受け取ると、せわしそうに自分の店へと戻って行った。

 カウンターに溜息が広がった。それぞれが改めて酒を汲み交わすと、しばし沈黙したまま静かになった。予定を決めるはずの花見の話題も、誰も継ぎ穂を足す気配がなかった。
 花見をしてくれれば二次会は例年通り月ノ川に決まってる。道江は期待しつつも微かな溜息を漏らした。
 政弘は小上がりの注文の鶏の骨付きもも焼きを焼いていた。道江はお盆を手に政弘のそばに歩み寄った。
「私が運ぶ」
 言わなくたって気心の知れた手筈。政弘は黙って道江のお盆にもも焼きの皿を載せた。彼女が小上がりへ運ぶと、客たちは待ってましたとばかりに香ばしい匂いに興奮して一斉に歓声を上げた。
 そのざわめきがすぐにカウンターに伝染して、若いタロちゃんが急に悲し気な声を上げた。
「アイちゃんに会いたいなぁ」
 すると、印刷会社の中年営業マンがタロちゃんの肩を抱きこむようにして、子供を茶化すような甘えた声をして真似た。
「アイちゃんに会いたいなぁ」
「会いたいなぁ」と元警察官もおどけた声を漏らすと、理事長も事務長も同じように「会いたいなぁ」「会いたいなぁ」と歌の輪唱のように繰り返した。
 そこへ、小上がりから戻った道江が呆れたようにカウンターの彼らに声を掛けた。
「何しみったれてるのよ。パーッとやりなさいよ。あなたたちらしくないわよ」
 道江は、アイちゃんがもう二度と店には来られないだろうと覚悟していた。でも、そんなこと、目の前のか弱き男たちに自分と同じように覚悟しろとは言えない。だから、ここはパーッとやるしかないじゃない。ねぇ、お客さん。
 そう道江は心の中で言いながら、順に彼らの目の前の酒を注いでまわってやった。
 ひと通り客の機嫌も直って外の気配を伺うと、窓ガラスにタクシーが通り過ぎて行く灯りが見えた。一番引き戸に近いカウンターの元警察官がその気配を勘違いして急に立ち上がって言った。
「アイちゃんかと思っちゃったよ」
 そう頭をかきながら周りに照れて見せると、またよろこけるように腰掛けた。それを見たカウンターの皆は一斉に身をすぼめるようにほくそ笑んだ。
 
 それから小一時間の間に、小上がりの客たちが帰り、カウンターの常連客も三々五々それぞれ賑やかに梯子先へ向かった。当然、事務長はスナックアイリスへ。理事長も仕方なさそうに誘われて行った。
 その軍団をひとしきり見送って、道江が暖簾を下げようと軒先へ出た時、向かいの陰に若い女性が静かに立っていた。彼女は店に入ろうとしていたところだった。道江は通りの方に体を向けて、
「どうぞ」と優しく声をかけた。
 その声に従うように女性が歩み寄ってきた。灯りの下に浮かんだのは、前にもきたあの女子大生だった。
 道江に導かれて店に入った女子大生は、花柄のワンピースにカジュアルなカーキ色のジャケットを羽織っていた。白い顔が、長い日がたった訳でもないのに懐かしそうにゆっくりと店内を見渡した。
 道江と政弘は、カウンターの端から見惚れるように立ちすくんだ。道江は、若いってそれだけで美しいと思った。そばにいた政弘の息を詰めた様子が分かった。
 女子大生が現れて、店内はそれまでのざわめきで濁った空気が一掃されたかのように澄んで見えた。道江はカウンターの上の箸置きを端へ寄せながら女子大生の席をこしらえた。ふっと足下に目が落ちて見たら紐付きのスニーカーだった。あぁ若者なんだぁと、道江は思った。
「お酒、ください」
「温燗でしたね」
「覚えてくれてたんですか。ありがとうございます」
 たちまち和んだ雰囲気が生まれた。初めの一口だけ、道江がカウンター越しにお銚子を差し向けて女子大生の猪口にお酒をゆっくりと注いだ。それを受けながら女子大生が、
「この地酒、月光川というんでしたね。それで、お店の名前が月ノ川」
 と、歌うように言った。
「はい、私たちの故郷の川よ。日本海に流れ出る川」
 道江も心なしか歌うように言った。
「おいしい」
 女子大生が猪口を口元から戻しながら独り言のように呟いた。
 道江は、それに応えるように突出しのサワラの煮付けを出した。
「サワラって魚へんに春って書くんですよね」
 ショウガの載った皮の切り込みに箸を入れながら、女子大生が言った。
 道江は初めて知って驚いた。それで、冬は何という魚になるのだろうと思った。すると、女子大生が道江の心の中まで見透かしたように言った。
「夏はワカシ、秋はカジカ、冬はコノシロ」
 道江は目を瞬いて訊いた。
「コノシロってお寿司のコハダよね。じゃぁ、ワカシっていうのは…」
「ブリの稚魚です。ブリは魚へんに教師の師」
 女子大生はちょっと得意げに言った。道江はもし自分に娘がいたら、こんなふうに歌うように言うのだろうなと思った。
「夜は食べたのかしら。何か作ってもいいのよ」
「いえ、大丈夫です」
 女子大生は急に恐縮そうになって言った。
 いつのまにか、政弘は外へ出ていた。道江はきっとアイリスだろうと思った。海苔むすび二皿を手に、道江はカウンターの方へ出て女子大生と並んで腰掛けた。
「一つずつ頂きましょ。どうぞ」
 そう言って、二つ載った皿を少し女子大生の方に寄せた。そして続けて訊ねた。
「私、今田道江って言うの。もしよかったら、あなたのお名前教えて」
「来島愛です」
 道江は偶然ってあるんだなぁと驚いた。今座っている席はいつもアイちゃんが座る席。そして名前まで似ている。アイちゃんは佐藤愛子だし…。
「じゃぁ、愛ちゃんね」
「はい」
 来島愛は海苔むすびを口許にかざしながら嬉しそうに応えた。二人の間に親しみが通い、自然とお酒も進んだ。道江はいつになく心地よい酔いを覚えた。
「愛ちゃん」
「はい」
「久しぶりよ、こんなゆっくりできたの。愛ちゃん、今日は来てくれてありがとう」
「ご無沙汰して、すいません」
「ううん、いいのよ。それより、もう四年生よね。卒業後はどうするの」
 道江は、もう少し彼女のことを知りたかった。
「何も決めてないんです。就活もしていないし…」
 来島愛は沈んだ声で呟いた。
 道江は、かってに来島愛の人生に何か悲しい何かがあるように思った。それは立ち入ってはいけない事情なのかもしれない。
「ごめんなさい、余計なこと訊いたりして」
「何がですか。私、大丈夫ですから」
 来島愛は小さな緊張を振り払うように言った。そして続けて言った。
「ほんとはここの土地にいたいんです。見る見るきれいに街が新しくなっていくし、希望があふれてるじゃないですか」
 どこか無理をしているようだけれど、元気を取り戻した気配に道江は少し胸をなで下ろした。
「いい所でしょ。あっ、もしかしたら愛ちゃん、こっちに好きな人でもいるんじゃないの」
「やめて下さい。そんな人、いません」
 来島愛は大袈裟に手を横に振りながら言った。その様子に道江も歳の差を忘れて笑った。店はすっかり二人だけの世界だった。

 そうして外の気配も忘れていた時だった。カウンター奥の電話が鳴った。
 電話はアイちゃんのいる施設からだった。介護士らしい女性が、道江が身許引受人であることを確認した上で、アイちゃんが大学医学部の附属病院に運ばれたことを告げた。
 道江は、その場ですぐにタクシーを呼んだ。店の簡単な始末をしながら、来島愛に一緒に病院へ付き合ってほしいと頼んだ。
「はい。私と同じお名前なんですよね。お力になります」
 来島愛は快く引き受けてくれた。二人は慌ただしく病院へ駆けつけた。
「急いで、運転手さん」
 道江は、運転席のシートにしがみついて前方を見たまま不安に駆られていた。来島愛も揺れるシートの上で身を硬くしていた。
 暗い夜道、小雨がフロントガラスを濡らしてワイパーが雨粒を飛ばしてゆく。タクシーは国道を二十分ほど走って大きな大学病院の夜間窓口の前に着いた。
 病室に入ると、女性の看護師と施設の男性がベッドの脇に立っていた。アイちゃんのベッドは六つあるベッドの病室のすぐ入口を入った一番手前の所にあった。そこは仕切りのカーテンが閉められたままで、わずかな部屋の明かりに遮られてひどく薄暗かった。
「応急処置を終えて、このまま朝までお眠りです。軽い心臓発作を起こされたようです」
 看護師が施設の男性に同意を求めながら事務的な報告をした。男性は小さく頷くだけであった。
 看護師が病室を出て行くと同時に、男性も出口へ向かおうとした。すかさず道江はその腕を取って引き止め、病室の他のベッドの患者に気遣いながら興奮を抑えた小声で言った。
「もう少し詳しく教えて頂戴。主治医から何か聞いてるんでしょ。施設でもどうでしたの」
 男性は慌てた様子で応えた。
「部屋からベルがあったんですよ。蒼白な顔して息絶えだえでしたから、すぐ119番して呼んだんです」
 それだけを言うと、男性が深くため息をつこうとした。そこを、道江は畳み掛けるようににじり寄って肝心な病状について詰め寄った。
 男性は三十歳くらいで気の弱そうなタイプであった。視線を泳がせ、今度は声を細めて言った。
「急な心配はいらない。軽い心臓発作です。お歳ですから、四、五日様子を見て大丈夫なら施設に帰れるでしょう。先生がそう言いましたよ」
 主治医を真似たような口調が可笑く、道江は少し怒りを覚えた。来島愛が身を寄せて道江を気遣った。
 男性は、「時間なので施設に戻らなければならない」と急を装った感じで病室を出て行った。道江は仕方なく溜め息をついた。来島愛と二人で手を取り合い、アイちゃんのベッドの方に歩み寄った。

 アイちゃんは、病人とは思えない安らかな寝息を立てていた。枕にたわんだ髪が数えるほどにほつれているくらいで、色白の顔色は幾分艶が失われているものの、話し掛ければ目を覚まして微かな微笑みを浮かべるかもしれない。道江はそう思ってもみた。しかしそれはすぐに打ち消されるのだった。
 静かに寝入るアイちゃんを見下ろしていると、もうお店には来なくなるように思えて道江は悲しくなった。来島愛も隣で身を硬くして佇んでいた。
 夜のしじまが病室にも染み込んでいるようだった。しばらくして道江と来島愛は静かに病室を後にした。二人の控えめな足音が静まった廊下に響いていた。
 病院の外に出ると、闇夜にポツンと一台だけタクシーの灯りが見えた。再び道江と来島愛はタクシーに乗り込んだ。夜道を走り抜け、大学の近くまでくると、通りの街頭の下で来島愛一人タクシーを降りた。
「アパートまですぐなんです。明日朝、また病院前で」
 そう約束して、来島愛は小さく頭を下げ背を向けると、アパートの方へ小走りに帰って行った。
 道江はタクシーに一人になると、病室に残してきたアイちゃんが偲ばれた。四、五日で施設に帰れる。少しほっとする気持ちの陰で、アイちゃんが店にはもう来られなくなるように思ったことが再び思い起こされた。車の窓の外を過ぎてゆく夜の街並みの灯りを眺めながら、道江は店にいた時のアイちゃんを思い出していた。それはいつものタロちゃんの片腕に自分の腕を絡ませて身を傾かせている姿だった。
 ようやく店に戻り二階のわが家に帰ると、政弘も帰っていた。
「ただいま」
「どこへ行ってたんだよ。心配したぜ」
「大学病院。アイちゃんが担ぎ込まれたのよ」
「それで」
「うん、ちょっとした心臓発作だって。四、五日、私、施設と病院を行ったり来たりするけど」
「あぁ分かった。そうしてやるといい」
 政弘は、夜遊びしてきた酔を振り払うように覇気のある声で言った。道江はやっと気持ちが和むのを感じた。
(つづく・全11回)

この記事が参加している募集

ほろ酔い文学

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?