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【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第5回)

 アイちゃんは一人暮らしを整理して養護老人ホームに入っていた。施設はそれまで住んでいた町から川を遡った遥か山里にあった。そこまでバスで二十分ほどかかった。県都の喧騒を離れた静かなその場所は老人にとって淋しさが募るばかりではないかと、道江は建物に入ってから何となく入所している老人たちを見て思った。
 アイちゃんは、施設でも〝アイちゃん〟と呼ばれていた。入所した時、出迎えた施設の一人が第一声にそう呼んだからだった。アイちゃんはやっぱりここでも〝アイちゃん〟だった。 
 面会ができる談話室には、吹き抜けの大きなガラス窓から昼過ぎの明るい日差しがたっぷりと注いでいた。アイちゃんは白地の介護パジャマの上に薄い紫色のカーディガンを着て、両脚をかたく揃えてテーブル席に腰掛けていた。月ノ川の店ではきまって着物姿だったせいか、初めて見るラフな洋服姿のアイちゃんはひどく小さくなったように見えた。道江が近づくと、少しびっくりしたような表情をして見上げた。
 道江はアイちゃんが哀れに思えた。
「アイちゃん、月ノ川の道江ですよ」
「……」
 アイちゃんは少し驚いたような目をした。思い出せないと泣き出してしまいそうでもあった。道江はゆっくり膝を折ってアイちゃんの手を取った。
「アイちゃん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
 微かな笑みをしてアイちゃんが言った。自分の名前が分かっていたのかどうか、道江はもう自分が誰であってもいいと思った。降り注ぐ恵みのような日差しと同じ優しい気持ちだけでいようと心に決めた。

「ここは素敵なところね」
 天井まで届いた大きなガラス窓の向こうには、新緑の山なみが迫るように聳えていた。
 二人はしばし外に視線を向けていた。
「ス・テ・キ」
 吐く息に乗せるようにアイちゃんが呟いた。それは自分のいる場所を自慢したい気持ちだったのかもしれない。仰ぎ見た眼差しが柔らいでまたわずかに笑みが浮かんだ。
 しかし視線を戻すと表情は再び沈んだ。わずかに怯えているようにも淋しがっているようにも見えた。落ち着かないというほどではないが、きっと自分をどうしていいのか分からないでいるのだろうか。道江にはアイちゃんがすっかり違う世界を生きている、そんなふうに思えた。
「きょう朝ね、卵焼き食べたの。美味しかったな」
 道江はアイちゃんの気持ちを迷わせたくなかった。それで訳もなく自分のことを話した。どうして卵焼きだったのか、言葉にしながら自分が可笑しかった。
 そんな道江を見上げて、好きな遊びを見つけて喜んだ時の子供のようにアイちゃんはまた小さく笑った。笑いながら身を乗り出すように両手でテーブルの上をしきりとさすった。いつまでもさすっていそうだったので道江がその手を押さえると、アイちゃんは突然突っ伏してすすり泣き始めた。
 道江は驚いた。さすっていたのを止めたからだと後悔した。
「ごめんなさい、アイちゃん」
「……」
 声をかけると、顔を上げてまた胡乱な眼差しをして道江を見つめた。道江はつかんだ手に少しだけ力を込めた。すると、アイちゃんは言葉にならない思いを届けようとしているように唇を震わせ、とうとう瞳を潤ませた。
 道江は、きっとアイちゃんは自分の心のありかを忘れてしまって悲しんでいるのだろうと思った。それがどんな心境なのか、アイちゃんの涙に触れてみた。すると、今度はアイちゃんが道江のその手をつかんだ。涙が道江の手の甲に流れ落ちた。冷たい涙だった。

 広い談話室には四組のテーブルが並んでいた。そこには道江とアイちゃんの二人だけだ。アイちゃんは痩せた背を丸めて俯いたまま。道江はほんの短い溜め息をついてから外の景色へ視線を向けた。
 もう何も話さなくてもいいと思った。道江はアイちゃんの悲しみをゆっくり解きほぐすように結んでいた手を離した。そうしてる間に、アイちゃんは疲れたらしく優しい寝息を立てた。
 しばらくして昼下りが傾き始めた。入居者の昼寝の時間なのかもしれない。道江はアイちゃんを部屋へ戻してあげなければと思った。困って周囲を見まわしていると、広い談話室の仕切りのガラス戸の向こうから青いエプロンをした介護士の若い男性が歩み寄ってくるのが見えた。
「アイちゃん、部屋へ戻りましょ」
 離した手をアイちゃんの手の甲に載せて道江が声を掛けると、アイちゃんが小さく唸った。ため息をついて道江がどうしたものかと思ったところ、ちょうど介護士がテーブルのそばに立っていた。
「ありがとうございます。あとは私が連れて行きますから」
 介護士の男性は道江に丁寧な挨拶をしながら腰をかがめると、実に慣れた動作といったぐあいに俯いたアイちゃんの両脇の下に腕を差し込んで、そのままゆっくりとアイちゃんを立ち上がらせた。
「ありがとね」
 アイちゃんは不思議と急に目覚めて、潤んだ目をして男性に体を持たせかけた。
「さぁ、行きましょう」
 二人はそのまま背を向け一歩一歩踏みしめるように談話室を出て行った。
 道江は取り残されたようにその場に立ちすくんだ。静か過ぎるほど自然に幕を閉じたかのような一幕だった。道江は再びため息をついた。

 道江は、しばらくそこにいたかった。今度はさっきまでアイちゃんが座っていた椅子の方にまわって腰掛けた。
 すでに遠のいた二人の後ろ姿も消えて、空っぽになったような心の中でふと浮かんだ。
 あぁ、アイちゃんらしいな。
 アイちゃんはお店でもそうだったように、若い男性がそばに来ると、どちらからともなく不自然でなく寄り添える蠱惑的な磁力を醸し出す持ち主だった。すでに八十を数え磁力のほども衰えてきているはずなのに、記憶の妖しさも手伝って微かなほとぼりを灯すのだった。
 なるほど、介護士の男性も心なしか嬉しそうであった。彼もやはりアイちゃんのタロちゃんになったのかもしれない。
 そう思ってお店のことが気になり始めて立ち上がろうとした時、向かいのテーブルに古い顔があった。

 その顔は忘れることにしていたはずだった。道江はその場をやり過ごそうかと思ったが、目が合って何か尋ねないわけにいかなかった。相手も何かを言いたげであった。
「失礼します。もしかしたら……」
 道江は徐ろにきいた。
 男は腰掛けようと中腰になったところで腰を上げ、虚な目を道江に向けた。大柄で強面なその目は不似合いに恥ずかしげだった。
 道江は言いかけたままでは失礼かと思い、ふと浮かんだ名前を告げてみた。
「橋詰様ではございませんか?今田です」
 相手が自分の旦那の友人だったことに多少の遠慮を含ませながら、苗字だけを名乗った。
「……あぁ、みっちゃんか」
 その言い方はひどく年寄りじみて、声も嗄れていた。そこで道江は初めて橋詰の手に杖のあることに気づいた。
 気の毒な気がして頷くだけになった。小さな驚きが喉を突いた。かと思うと、道江は橋詰のテーブルに二、三歩歩み寄っていた。
 人は変われば変わるものだ。なんと哀れなものだろう。アイちゃんは子供のように変わり、この橋詰は小動物のように変わってしまった。道江は、改めて今自分が来ている場所が現実とは遠くかけ離れた世界のように感じた。
「はい、今田道江です。思い出して頂けましたか」
「あぁ、やっぱりみっちゃんだぁ」
 政弘の古い友人とは言っても自分とは幼馴染ではない。店を持つ時に世話になっただけだ。しかし、道江に叔父から嫁ぎ先について話があった時、橋詰が自分にだけいいように仕向けた悪事だけは、道江は忘れいていない。
 それにしても、いま目の前にいる橋詰には、あの後どんな手管を使ったか知らないが、村の議員にまでなったというあの遠慮のない図々しさは微塵もなく消え失せていた。
「叔父さんは……」
 そう、道江は言いかけて止した。訊いたところで政弘に報告しても、また政弘は腐って文句を言うだけだろう。俺達を足蹴にして成り上がりやがって、と。
 よく見ると、グレーのパジャマの上に羽織ったカーディガンの裾には白い名札が縫い付けられていた。と、突然、橋詰はにやけた表情をしてフラつきながら道江ににじり寄った。
「やぁ、みっちゃん。相変わらずいい女っぷりじゃないか」
 本性だけは呆けないのだろうか。その表情は初めの哀れに見えた印象とは裏腹に恐れを感じさせた。道江に不安が襲った。これ以上昔の記憶を思い出されていいことはないだろう。道江はすぐに深く頭を下げて後退りしながらその場を立ち去った。
 廊下の影で深く深呼吸した。橋詰が追いかけて来ないか不安がよぎったが、杖の音はしなかった。道江は施設の玄関に向かった。

 なぜ橋詰がアイちゃんと同じ施設にいたのか、そんなことはどうでもよかった。またここへアイちゃんに会いに来ても橋詰とは顔を合わせないようにしよう。そして橋詰と会ったことも忘れようと決心した。
 せっかくアイちゃんに会えたというのに。道江はアイちゃんの変わり果てた姿に淋しい想いをしたのと、会いたくもなかった橋詰に会ってしまった後悔の念で、心が掻きむしられてならなかった。早く政弘に会いたいと思った。
 施設を出てきてすぐ前の通りのバス停に立った。道江はじっと待っているのが耐えられなかった。足早に通りを歩いた。悲しいのと悔しいのとが混じった苦い涙が溢れた。
 それでも時折、気を取り直そうと顔を上げた。じき道の先に川の土手が見えた。ここを真っ直ぐ行けば必ず帰り着く。道江は足取りを早めた。気がつくと涙は川風に吹き払われていた。
(つづく・全11回)

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