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【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第3回)

 居酒屋月ノ川は午後四時に暖簾を出す。雪道の轍が消えて足もとが軽くなり始めた頃になると、暇を持て余した老人客が早くからやって来る。彼らは昼寝をしてから散歩に出て来ると、ちょうどそんな時間に繁華街にたどり着くのだ。
 助さん格さんがやって来て、そのすぐ後に白髭の黄門様がやって来る。三人は現役時代の仕事仲間で、いつからともなく早い時間にやって来るようになって、帰るのも早く小一時間で揃って帰ってゆく。
 早い時間から開いてるのを知った客がちらほら増えて、店には会社に戻らないで直行して来る客もいる。なかには煙草を買って来るとでも言って店を女房に任せきりにしてやって来る商店主もいる。

 そんな客たちの来店がひとしきり終えた束の間、道江と政弘は一息つくようにくつろぐ。二人とも何を話すでもない。道江はカウンターの中の椅子に腰掛けテレビを観る。決まって韓流ドラマの後半、面白いクライマックスがよかった。
 一方、政弘は店の扉の外に椅子を出して煙草をくゆらせている。夕暮れ前、飲屋街には酒屋やお絞り屋などが小路の陰を行き来している。時折、仕入れ帰りの店主の姿もある。誰と声を交わすでもなく、政弘は宙になびくタバコの煙を追うような素ぶりのままだ。

 その日、アイちゃんはいつもより遅くやって来た。タクシーの運転手が後で話したことには病院が長引いたということだった。口止めされていたらしく、どこの病院へ何のために行ったのかなどそれ以上は教えてもらえなかった。
 アイちゃんが来たその夜も、もちろん本人に聞くなど野暮な話はしなかった。古い付き合いのアイちゃんとはいえお客さんだ。そんなことぐらい、道江も政弘も心得ている。
 さて今宵のタロちゃんはといえば、あれからもう三ヶ月も過ぎたというのに女房に浮気され放しでいるのも忘れて、月ノ川に来れば相変わらずアイちゃんの隣の指定席にしぜんとおさまっているのだった。
 しかしある日のこと、アイちゃんの様子が少しおかしかった。
 「はい、アイちゃん」
 道江はいつものようにお猪口をアイちゃんの目の前に置いてお酌をしようとした。ところが、アイちゃんはお猪口を受け取らずに指だけでお酒を飲む手真似をした。
 「アイちゃんったら…」
 道江は、仕方なくお猪口をアイちゃんの目の前に置いて静かにお酒を注いだ。
 そこへ、先に店に来ていたタロちゃんがトイレから戻って来た。
 アイちゃんはタロちゃんをひどく懐かしそうに見上げた。そして誘われるように席に着いたタロちゃんの腕に自分の腕を絡ませると、そのままじっとお猪口を見つめた。
 タロちゃんが自分のお猪口を摘んで乾杯を促すと、アイちゃんは何を迷ったのか、道江の方を見上げ、初めて見るような胡乱な瞳を向けた。おかしく思った道江に一抹の不安がよぎった。
 「大好きなお酒よ。でも今日はひと口だけにしておきましょうね」
 道江が子供をあやすような優しい声音をこしらえて言った。
 すると、突然アイちゃんの瞳がみるみる潤んだ。
 「みっちゃん、私、私……」
 涙顔で訴えるように呟いた。とうとう隠しきれない涙が溢れ出た。
 「いいの、それ以上は言わなくていいのよ、アイちゃん」
 道江は直感で気づいた。アイちゃんは、この冬から少し体の加減が思うように動いていないように見えていた。
 ところが、傍からタロちゃんが甲斐甲斐しくティッシュを手渡すと、アイちゃんは両手で顔を覆うようにして思い切り鼻を嗅いだ。
 そんな大袈裟な素振りのアイちゃんを見るのは店の誰もが初めてであった。彼らは驚いて飲もうとしたジョッキーを宙に持ち上げたままだったり、食べようとした箸を止めたままだったり、一瞬皆が目を見張った。
 気がきかない客の一人が叫んだ。
 「どうしたんだい、アイちゃん!」
 とっさに道江が忠告の一撃を放った。
 「何でもないの、アイちゃんはちょっと調子が悪いだけ」
 たちまち客はペコリと首をたれた。
 すると、アイちゃんがそちらの方を見て突然「アハハ」とひと声笑った。他の客の幾人かも同じように復唱して笑いたてた。アイちゃんは恥じるふうもなく、突然泣いたのが嘘のように彼らの声援に笑顔で応えた。
 道江も政弘も、そんなアイちゃんの変わりようが不思議におかしく、思わずお互いに目を見合わせた。
 その後、アイちゃんはどうしたのか、とうとう一滴も飲まないうちにうなだれたまま眠り込んでしまった。隣のタロちゃんがまるで女学生が自分の髪をいじくるみたいにアイちゃんの毛先をもてあそんでいた。

 外はすっかり夜の闇に包まれたようだった。そんな頃、天下りの理事長と事務長が例のごとくお揃いでやって来た。理事長が挨拶のつもりでアイちゃんの背中をさすりながら、とんでもない冗談を飛ばした。
 「なぁんだアイちゃん、死んだかぁ」
 アイちゃんは片肘を崩してカウンターに伏せってしまった。お銚子の酒がこぼれて着物の袖口が濡れた。咄嗟にタロちゃんが泣きそうな顔して、そのまわりをせっせと布巾で拭き始めた。
 アイちゃんは動かない。道江は理事長の冗談を一喝した。
 「理事長さん、アイちゃんは疲れてるの。何よ、その失礼な言葉。今日は高いよ」
 「おおっ怖。事務長、今夜は経費にしておこう!」
 「ダメですよ、理事長。さっき次の店は俺が持つって言ってたばかりじゃないですか、男らしくないですよ」
 事務長は自分の財布をヒラヒラとたなびかせながら言った。
 「事務長さんの言う通りね、理事長さん」
 道江が釘を刺した。理事長は観念した。アイちゃんは依然動かない。スヤスヤと寝入ったきりだ。
 「病院で疲れたんだろうよ」
 政弘がアイちゃんをねぎらうように言った。道江は夫の優しい言葉を久しぶりに聞いたような気がした。
 客たちは皆、アイちゃんに気をつかって静かになった。理事長もさっきまでの勢いが失せて魔の悪そうな視線を泳がせていた。
 そんなところへ新参の男女二組がきて、奥の小上がりを占領した。道江が注文を取りに走って愛嬌たっぷりと稼いだ。
 「あんた、もも焼を四本ね。それとそこのキリン二本も」
 政弘も勢いよく仕事にかかった。冷蔵ケースから瓶ビール二本を指に挟んでつまみ出すと、カウンター奥の腰高の羽扉を体ごと押し開けて小上がりへ。すぐに戻ると、冷蔵庫からもも肉を取り出し焼きに入った。
 道江は、調理台で大ぶりな刺身の盛り合わせをこしらえ舟桶を手に小上がりへ。そこには久しぶりに仲間を誘ってやって来た三人の中年女性たちがいた。口々に嬌声を交えた季節外れな花を咲かせていた。道江もしばし腰を据えて話に興じていた。
 じき冗談に見切りを付けて、道江がカウンターの調理台に戻ってきた。
 「どうしたんだい女将、盛り上がってたじゃないか」
 常連客の商店主がからかうように言った。
 「ないしょ」
 「旦那にも言えない話だったりして」
 「ばか言うんじゃないよ。理事長さんと同じに高く戴くよっ」
 いつだって万札の手持ちのない商店主は閉口してカウンターにちぢこまった。小上がりの方では相変わらず笑いが絶えることなく続いていた。
 アイちゃんは依然タロちゃんの腕に伏せたきりだった。客は皆それぞれに酒を楽しんでいて、店内はいつもの落ち着いた活気に包まれていた。

 そんな時、店の外で男の大きな声がした。酔っ払いに違いないが、人をからかっているタチのよくないだみ声であった。
 「それっ、しっかり歩け、お嬢ちゃん。おんぶしてやろうか」
 小さな悲鳴が聞こえた。
 出入り口に一番近いカウンター席の客が引き戸から外を覗こうとした。男が激しく舌打ちするのが聞こえた。その瞬間、慌てた女の子が店の中へ飛び込んで来た。男の逃げて行く足音がした。
 女の子は花売り娘だった。どうやら足が悪そうであった。上体を傾向かせた格好で、手には少し乱れた大きな花束を抱えていた。
 「お花、買ってください」
 消え入るような涙声であった。店に入れば何よりも先にそう言うように習わされたものの、思うように声が出ない様子であった。中学生ほどの可憐な女の子で、月ノ川では初めて見る花売り娘だった。
 夜の街に花売り娘が現れるのは珍しいことではなかったが、ひと頃よりはずっと少なくなっていた。客の方も昔のように歓迎することがなくなっていた。
 「ごめんなさいね」
 道江が客の怪訝な様子を見て、低い声でそう言った。
 花売り娘は涙目を伏せたまま下唇を震わせていた。それでも一本でも買ってほしいと、百合の花を手にした腕を真っ直ぐに前へ差し出した。
 すると、眠っていたはずのアイちゃんがゴロちゃんの腕を解いて徐ろに顔を上げた。
 「それ、みんな頂戴」
 帯の間から財布を抜き取って、何枚かの紙幣を花売り娘のポケットに差し込んだ。娘は驚くよりもたちまち笑顔を浮かべた。
 もとより値段が決まっているわけではない。お釣りは持ち合わせていないからそのままチップになるのが当座だ。
 女の子は喜びのあまり花束をアイちゃんに押し出すように手渡すと、即座に頭を下げその場を片脚を引きずりながら立ち去って行った。夢を見た一瞬のような光景が消え、店内に薄いため息が漏れた。
 花はそれから店にいる者たちに順に一本ずつ渡って、まるで居酒屋が思いがけず花園と化したかのようになった。
 そんな中、アイちゃんのお迎えのタクシーが来た。タロちゃんと運転手に支えられながらアイちゃんはタクシーに乗り込み帰った。車の音がブーンと鳴って夜道へ遠のいて行った。
 「困ったなぁ、こんな洒落たもの持たされちゃって」
 「次に行く店のママにでもプレゼントするかぁ」
 男たちが三々五々気恥ずかしげに手にして店を引き上げて行った。

 道江は花売り娘の女の子のことでふと思い出すことがあった。
 「ねぇアンタ、あの子いつも夕方になると、表通りの角の花屋の前で立っている子じゃないかしら」
 「なぁんだ、お前知らなかったのか。あの娘はアコーディオンで流してる多吾作の子よ。二度目の若い嫁に生ませたさぁ」
 政弘は、きっとどこか常連にしている店の仲間から聞いたのだろう。道江はそんなふうに思った。
 女の子は、夕方になって花屋の売れ残った花を恵んでもらって売り歩いていた。花屋は女の子を可哀想に思っているのだろう。花をあげると堪らなく可愛げな笑顔をこしらえる。そして何度も頭を下げながら角の小路へ脚を引きずりながら消えてゆく。
 食器の片づけをしていた道江は政弘の話した花売り娘の女の子のことを思い出していた。奥の小上がりの方から、「お前、暖簾入れたらどうだ」と呼ぶ夫のいつもの威張った声がした。
(つづく・全11回)

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