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【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第一回)

 店の引き戸の向こうで車のドアの閉まる音がした。同時に曇りガラスに真っ赤な人影が映った。入ってきたのは大きな角巻を羽織った老女、アイちゃんであった。
「よろしくお願いします」
 介添えしたタクシーの運転手が制帽のツバをつまみながらカウンターの方へ愛想たっぷりな会釈を送った。
「いつもご苦労様」
 居酒屋月ノ川の女将今田道江の張りのある応えが返った。すると、七人ほどが座れるカウンターにいる四人の客たちが立ち上がって「いらっしゃぁい」と大声で唱和した。
 アイちゃんは勝手知ったる所というぐあいにカウンターの一番手前の陰に杖を立て掛けて、そこから客たちの背中を伝って空いた席に着いた。
 すぐさま客の一人が立って赤い角巻を隅のテーブルの上で丁寧に折りたたんだ。
「アイちゃん、ここに置いとくからね」
「ありがと」
 アイちゃんが店に現れると店の中が和んだ。それまでの侃侃諤諤の議論も上司の悪口も卑猥な鬱憤払しもしばし鳴りを潜めるのだった。
「お元気ですね。いつまでも綺麗だね」
「今日も寒いね、雪が散らつき始めた。冷えないようにしなくちゃ」
「あの真っ赤なの、お似合いですね。かわいい」
 などなど、心配したり褒めたりすると、アイちゃんは目を輝かせて嬉しそうな丸い笑顔を向ける。

 アイちゃんはもう八十に近い。最近、杖を持つようになったが、店にはほぼ毎晩一人でやって来る。必ずタクシーで乗りつける。時間は一定していない。遅いことはないが早くもない。そのはっきりしない理由は誰もわからない。
 アイちゃんは独り暮らしというから、体調のぐあいをみて出かけて来るのに違いない。皆、そう思っている。
「あっ、この人が噂のアイちゃんですか。今日は光栄だなぁ」
 居酒屋月ノ川の常連になって間もない新参の若いサラリーマンが隣の席で感激した声を上げた。
 その声に応えるように、すぐさまアイちゃんが彼の二の腕にしがみついた。それは、その夜のタロちゃんが決まった瞬間だ。
 歌の文句に「愛ちゃんは太郎の嫁になる♪」とあるように、アイちゃんはタロちゃんの一夜の嫁になる⁉︎ とは言っても席が隣同士というだけで、いつからともなくそうなった。
 誰が最初のタロちゃんだったかは、アイちゃんに聞いても「もう忘れた」。女将に聞いても、「あんただったかもしれない」。男客は皆、照れて頭を掻く。

 アイちゃんにたまたま隣り合わせてしがみつかれても嫌がる客は皆無だ。それは、しがみつかれた者ならば誰でも気づいている。
 〝女神の肌〟〝天使の肌〟〝夢見肌〟など、タロちゃんになったことのある客は揃ってそんな例えを感嘆まじりに言う。おばあちゃんとは思えない白く微かな湿りを含んだ匂い立つ肌は「赤ちゃんみたい」と道江を驚かせたほどの美肌だ。
 というのも、アイちゃんがこの元花街の芸者だったということだけは何となく皆が知っている。しかしその前後のことは誰もほとんど知らない。
 だからアイちゃんがいないと、客たちは女将の道江からアイちゃんの過去のことを聞き出そうとする。
「アイちゃんの旦那って、どんな男だったのかなぁ。すごい金持ちだったりして」
「いや、怖い世界の奴だったりして。アイちゃん可哀想だなぁ」
「子供いるのかなぁ。俺と同い歳ぐらいだったりして」
 決まってアイちゃんの男の話題になった。
 道江はアイちゃんが店にいない時に客たちがアイちゃんの悪い噂をすると、女博徒の啖呵宜しく調理台を叩いて怒った。
 その音の大きさに一同驚いて、一瞬店内は時間が止まったように静まり返えった。気まずい空気が伝染して箸も盃の手も止まって、客は揃ってうつむく。
 道江の女将を張った説教が始まった。どういう訳か江戸弁になった。
「大体あんたたちは揃いも揃って女房の尻に敷かれっぱなしの苦労知らず。会社ではひたすら上司や部下の顔色をうかがって仕事してるんだろ、情けないねぇ。女子社員には色目使って鼻の下のばしてるんだろうさ。うちの店に部下の男の子や女の子を連れて来たことが一度だってあるかい。昔は上司に金魚の糞のように連いて来て、あれだけ奢ってもらってたっていうのにさ」
「もう死んでいないですよ、あの人たち」
「何かい、生きてりゃぁ、また奢ってもらおうって魂胆かい。情けないにもほどがありはしないかい」
「ハイ、すいません」
 一番に応えたのは、定年までまだあと十年はありそうな印刷会社の営業マンで、彼は何かにつけ道江に叱られる。
 前にも、アイちゃんのことを昔近所のピンサロにもいたのではないかと邪推して、
「そんなはずがあるわけないんだ、アイちゃんは。彼女のことは私がいちばんよく知ってるんだ、古い付き合いだからね。余計な戯言は言うもんじゃないよ。あぁそうかい、あんたはああいうとこでも遊んでるんだ。みんなに教えちゃおうか」
 そう道江は度突いて見せた。たちまち営業マンは一番高い刺身の盛り合わせを注文して謝った。
「いい心掛けだ。あんた出世するよ」
 道江は、そう心にもないお世辞を言うのだった。

 ところで、アイちゃんはお酒を温燗のお銚子一本しか飲まない。
 アイちゃんが席に着けばしぜんと女将の道江は口にこそ出さないが「姐さん」と呼んで最初の一杯だけを注ぐ。カウンターの中から袖を気にしながら銚子を傾けると、アイちゃんも小首を傾げながら猪口を差し出す。
 二人のそんな所作にはどこか典雅な風情が見え隠れした。人知れぬ友情が通っているようだ。
 道江は注ぎ終えるとお銚子をアイちゃんの目の前に置く。決まってアイちゃんは始めのひと口をタロちゃんに乾杯を促す。
 その夜のタロちゃんもお通しの煮物を口にしようとした箸をビールのコップに持ち替えて、すぐにアイちゃんの求めに応じた。
「カンパーイッ」
 アイちゃんは「ありがと」と短く呟き、猪口を寄せてすするようにお酒を口にした。
 新参のタロちゃんはアイちゃんにしがみつかれた片腕をかばいながらコップをひと思いにあおった。噂のアイちゃんと並んで座れたことがよっぽど嬉しかったようだ。
 それはいつもの光景で、常連客は冷やかすでもなく微笑ましく見守っている。タロちゃにいつかの自分を見るようで、むしろ気恥ずかしいのであった。
 そんな彼らの目の前では、そろそろ湯豆腐の鍋の白い湯気が立ちのぼっていた。

 そこへ年配の常連客二人組が入ってきた。
 すると、いつも奥の小部屋の上がり口に腰掛けて煙草をくゆらせていた道江の亭主政弘が立ち上がって客を出迎えた。
「やぁ、いらっしゃい。寒い中、ありがとうございます」
 客の二人は、政弘に誘われるままカウンターの一番奥の席に腰掛けた。
「相変わらずお元気で。仲もいいし」
 背が高く体格のいい一人が、よく通る太い声で店の夫婦の機嫌をとりながら女将の道江の方へ強面を崩した顔を向けた。
 道江は、二本のおしぼりの口を開けながら笑顔で応えた。
「アイちゃん、今日も綺麗だね」
 常連客たちは、店に入るとカウンターのアイちゃんに背中を軽く叩いて挨拶をしてゆく。アイちゃんは、小首を向ける程度に頭を下げる。その日も、そうしていつものさりげない挨拶が交わされるのだった。
 来店したばかりの中年二人組は、すっかりゴマ塩頭で体格の良い方が天下り先の理事長で、もう一人は同じ所の事務長とか。
「アイちゃん、いただきま〜す」
 キープしている上等な地酒の白木の枡を掲げながら、理事長がアイちゃんの方へ目配せを送った。アイちゃんは驚いた小鳥のように小首を傾げて掌をヒラヒラと振って応えた。

 その夜も居酒屋月ノ川にやって来たアイちゃんはタロちゃんの人生相談に乗っているところだった。それはだいぶ深刻な相談であった。
「嫁が最近、浮気してるみたいんです。どうしたらいいでしょうか」
「君の何がいけなかったと思うの」
「えっ、僕のですか。僕は何も悪いことなんかしてませんよ」
「それよ。それがいけないの、君は」
「どういうことですか」
「つまらないのね、きっと奥さん」
「何がつまらないんですか」
「君の、そういう甘さかな。優しさとは違う」
 そこで小さな沈黙が通った。カウンターの皆がいつからともなく耳を澄まして聞き入っていた。
 そんな静けさを埋めるように、道江がゆるりとビール瓶を持った腕を伸ばして若者のコップを満たしながら言った。
「口だけの優しさじゃ、女はダメなのよ」
 若者は怪訝な面差しを向けてコップに注がれる泡を見つめていた。その泡が途切れて手元にコップを置くと、壊れた縫いぐるみの首のようにうなだれた。
「男は黙って抱きしめるの。言葉はいらないの。男の優しさは行動力よ。何もしないのは優しさだけじゃないから」
 アイちゃんはいつの間にか饒舌になっていた。いよいよ他の客たちも自分に思い当たる節を探るような顔つきをして聞き入り始めた。
「諦めなさい。女は遊びじゃ浮気できないの。責めたりしたら、どんどん悪い方にしかいかないんだから。君にとっては事故かもしれないけど、浮気はもう事件よ。もう仕方ないわね、別れておやりなさい」
 若者は髪を掻きむしりうなだれてしまった。
 そこで、アイちゃんは彼を慰めるようにからめた腕をグッと引き寄せた。たちまち彼に気恥ずかしそうな笑みが浮かんで、アイちゃんが言った。 
「味方してあげる」
 二人のそこだけが甘い香りに包まれたようで、じっと噛み締めるような雰囲気がほんの時間だけカウンター席を包んだ。
 と、店の引き戸がガラリと鳴った。アイリスのママだった。
「みっちゃ〜ん」
 言わずもがな、用事は分かってる。「あいよっ」とばかりに醤油の入った小瓶が、カウンターを跨いで伸びた道江の手からママに手渡された。
 スナックアイリスは、月ノ川から小路沿いに百歩ほど離れた四つ路の二軒目にあった。社交界にも知れた名だたるスナックの一軒だ。もちろんママは細面の美人で若い時は銀座にもいたとか。この日も客が注文した出前の寿司のために、切れていた醤油の小瓶を借りにきたのだった。
「ありがと。あらっ事務長さん、こんなところにいたの。ダメじゃないウチにもいらしていただかないとぉ。待ってますよ」
 ママはそう言ったきり、鼻先に片手をそば立ててみっちゃんに謝るような仕草をしながらピシャリと引き戸を閉めて自分の店へ帰って行った。
 と、いきなりカウンターの奥にいた二人連れの一人が叫び声を上げた。
「おおっ事務長、今の美人ママと知り合いかぁ。見かけによらず豪勢な遊びしてるんじゃないか、結構なことだ。さあ、どんどん行こう」
 長たらしい名前のよく分からない公共団体の中年理事長だった。彼は自分より少し若い連れの事務長に労うような揶揄うような顔をして矢庭に銚子を傾けた。降参した事務長は拝むように両手で溢れそうな升酒を受けていた。
 それから常連客の話題は、どういうわけか風呂の話になった。それは後から入ってきた客の元警察官と商店主が話題にした話で、いささかアイちゃんを困らせた。
 というのは、居酒屋月ノ川には当時まだ二階に道江たち夫婦が間借りしていて、その一階の店の奥に風呂場があった。蒸し暑い夏ともなると、開店前に来た客がもらい湯をするのだった。
「いやぁ、上がった後にカウンターで飲むビールの美味かったことったらなかったよな」
 元警察官がしゃがれ声で言った。
「どこかでだいぶ飲んでいらっしゃったみたいね。でも、もうその話は止しなさい」
 道江が、その元警察官のいつもの言い訳でしかない放言を制した。アイちゃんが下唇を噛んでいる。道江は慰めるようにおしぼりを替えた。
 事件は三十年も前のことである。風呂場を覗いた者がいた。そこにはアイちゃんがいた。芸者を辞めた後のことで、細おもてのキレが溶けて裸の体の線もいくぶん豊満さに優しみが感じられた。もちろん、そんなことは誰も知らない。知ったのは店の客でもない覗いた中年助平だった。その助平を捕まえたのが、当時から常連客の元警察官だった。
 しかし、それは事件後に噂された飛んだ捕物帖であった。若き警察官は仕事中ではなかったのだ。つまり彼もチカンだった。たまたま、助平の方が先に覗いていたというわけ。皆の陰口はいよいよ現実味を帯び、若き警察官に詰め寄ったものだった。
「違うよ。俺は前々からそういうことが起こってはいけないと心配していたんだ。アイちゃんを守ろうとさぁ」
「前々からって初めてじゃなかったのかよ。しかも守るって、覗くのが守るってことかい。勤務中だとしても許されることじゃないぜ」
「だから、俺は覗くためにあそこにいたわけじゃないんだってばさ」
「いただけでもダメよ。あんたはさぁ、警察官になる資格なんてないんだ。あんたもアイツと同類よ。アイちゃんの前で土下座しろってんだい、畜生」
 最後の畜生が自分も覗いてみたかったと、店の誰にも分かった。その一言で皆の失笑を買ってしまい、ひとまずその話題は済んだかに見えた。
 しかし、そこへアイちゃんが店に現れてしまった。一度途切れた興奮は燻ったままだ。尚も悪いことに、アイちゃんはあの時に犯人を捕まえてくれた若き警察官の隣に腰掛けてしまった。
 アイちゃんはお人好し、空気が読めなかった。
「あの時はほんとにありがとう」
 当時、アイちゃんの中では事態はそうなっていたのだ。もちろん、他の客たちは真犯人とは別に当の警察官も覗こうとしていたなんて話はもうしない。道江からしっかり止められていたし、何よりもアイちゃんがかわいそうだからだ。
 思えば、タロちゃんの第一号はその若き警察官だったのかもしれない。それから第二号、第三号が誕生して、果たしてどういうわけか、今夜もその彼が商店主を連れて飲みにやって来た、という次第だ。
 事件は遥かな宵の出来事だ。いつの宵もひとしきり飲んで喋ってお愛想の時がきて、夜が酒を呑み込んでゆく。
 アイちゃんの潮時は女将の道江が決める。外のタクシーまで送るのはタロちゃんの役目と、これもとうから決まっている。月ノ川の閉店はアイちゃんの潮時だ。
(つづく・全11回)

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